おっかない先輩
前回は浮き球三角ベースボールの話を最後にした。照沼康彦氏に声を掛けられ、この浮き球三角ベースと出合った当時、僕はファンサービスの部署におり、野球振興にも関わっていたので、老若男女、お子さままでが野球に興ずることのできるこの競技は野球の面白さを体験でき、引いては野球選手人口の底辺の拡大、女性ファン獲得などにも通ずる要素があると思っていた。
性別や年齢を問わず、どこからともなく集まってくる野球好きな面々が楽しそうに「浮き球」を追いかけている姿を見ていると、野球の持っている本来の楽しさに触れたようなワクワク感を感じた。本当にさまざまな人が集まってくるが、中にはテレビに登場するような著名人もいたりして面々は多彩だ。ここで僕が知り合った人たちは僕のネットワークにも大きな影響を与え、さまざまな縁を生み出してくれた。この首都圏リーグのウ・リーガーの交流の場は、東京は新宿駅南口近くの居酒屋「浪漫房」や新宿三丁目にある居酒屋の「池林房」(ちりんぼう)、沖縄居酒屋の「海森」(かいしん)というお店であり、ここでは楽しく怪しい野球談議が夜な夜な交わされている。
さて、ここで次の素晴らしい出会いに話を移そう。
僕がこのプロ野球界に身を置き、プロ野球選手としてモノにはならなかったが、球団職員として大好きな野球に携われる仕事をずっと続けさせてもらえたのも、人との縁があってのことだったからだ。
中央大学入学と同時に野球部に入部したものの、ほぼ練習の手伝い、雑用に追われる毎日、そして、怖い先輩もいた。1年も経たないうちに「野球はもうやめよう」と思うようになっていたある日、何週間ぶりにグラウンドに行ったときに、故・宮井勝成監督に僕を推薦してくれ、投球を披露するチャンスをある先輩が作ってくれた。そこで好投した僕は力を認められ、すぐに主力メンバー入りを果たすことになる。
その先輩というのが阿部東司さん、阿部慎之助巨人軍作戦兼ディフェンスチーフコーチの父だった。あのときのチャンスがなかったら僕はあのまま野球をやめていただろう。
以前もこの阿部さんについて触れたことはあったが、阿部さんはまあ、この時代にどこにでもいた、いわゆる「おっかない血の気の多い先輩」だった・・・
この続きはプレミアムサービス
登録でご覧になれます。
まずは体験!登録後7日間無料
登録すると、2万本以上のすべての特集・インタビュー・コラムが読み放題となります。
登録済みの方はこちらからログイン