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石田雄太の閃球眼

石田雄太コラム「穏やかな笑みと勝負師としての凄み」

 

1975年のペナントレースで優勝を決め、歓喜の表情を見せる広島・古葉監督


 昭和の時代、プロ野球のテレビ中継は午後9時少し前には終わってしまった。だから「試合の途中ですがまもなく野球中継を終了させていただきます」という実況アナウンサーの非情な通告を聞くや、野球好きの小学生はすかさずラジオにかじりついたものだ。

 あの日もそうだった。

 昭和50(1975)年10月15日の夜。当時、名古屋に住んでいた野球好きの小学生は、東京のラジオ局が発信する微(かす)かな電波を求めて夜の9時過ぎ、家のベランダへ出た。聴きたかったのは後楽園球場でのジャイアンツとカープとの一戦だ。最下位に低迷していたジャイアンツと、この試合に勝てば前年最下位から優勝を成し遂げるカープ──抑えの金城基泰柴田勲をレフトフライに打ち取って、カープの初優勝が決まった。

 ラジオなので映像を観ることはできていない。にもかかわらずそのシーンの動画を、今も脳内で再生できる。そして、金城が投げる前、脳内カメラがカープのベンチを抜くと、そこにはベンチの奥で姿半分、陰に隠れた古葉竹識監督が立っていた。古葉さんがこんな話をしてくれたことがある。

「チームの責任を取るのは監督である僕しかいないわけですよ。だったら、チームが戦っているときに座ってる場合じゃない。僕は試合中、一度としてベンチに座ったことがない。いつも隅っこに立って、内外野の選手がどんな動きをしているか、ピッチャーがどんな様子なのかを確かめていました。だって責任を取るのは、どの選手を使うかを決めるのが僕だからでしょう。僕は大学(東京国際大)でも7年間、監督を務めましたけど、一度も座ったことはありません。いつも隅っこに立って、選手と一緒に戦っていました」

 物陰からそっと見ているのは誰か、と言われれば、野球好きの間では『巨人の星』の星明子か古葉監督のどちらかだ。いつも穏やかで物静かな指揮官はカープを4度のリーグ優勝、3度の日本一に導いた。中でも個人的に印象に残っているのは1975年の前年最下位からのリーグ初優勝と、もう一つ・・・

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石田雄太の閃球眼

石田雄太の閃球眼

ベースボールライター。1964年生まれ。名古屋市立菊里高等学校、青山学院大卒。NHKディレクターを経て独立。フリーランスの野球記者として綴った著書に『イチロー・インタビューズ激闘の軌跡2000-2019』『大谷翔平 野球翔年』『平成野球30年の30人』などがある。

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