週刊ベースボールONLINE

生中生無 死中生有

佐藤道郎コラム 第25回「大阪は楽しかった! 困ったのはうどんだけさ」

 

1977年限りで野村監督は退任、一選手としてロッテに移籍となった


エースと四番だけじゃダメ


 南海の話はひとまず今回を最後にしておこうかな。まだまだ、たくさん話はあるけど、この連載も何百回と続けるわけじゃないだろうしね(笑)。もちろん、南海、特に野村(野村克也)さん話は、これからも時々、出てくると思うから、ひとまずね。

 でもさ、おでんとか焼き肉の話をしているうちに、どこまで話したか忘れちゃったね(笑)。確か江夏(江夏豊)が阪神から来て、俺が先発に回ったあたりだったかな(77年)。その前の年も最多セーブのタイトルを獲っていたし、よく「リリーフにこだわりはなかったんですか」と言われるけど、はっきり言えば、ないよ(笑)。当時のリリーフはそんなに日が当たる役割じゃなかったし、何より給料上がらないんだからさ(笑)。2年目くらいからずっと言ってた。「監督、たまにはセットポジション以外で投げさせてくださいよ」って。俺はリリーフで投げるとき、たいてい走者がいたからね。

 いや、リリーフが嫌いだったわけじゃないよ。試合で投げるのは好きだったし、抑えたらカッコいいでしょ。世界が自分を中心に回っているような気持ちになれる。最後のバッターを抑えて、監督がマウンドに来て、「ミチ、ナイスピッチング」って言ってくれ、「ありがとうございます!」「また今日はいい酒飲めるな」「はい!」って感じかな。

 野村さんをヤクルト時代の監督からしか知らない人は、こんなやり取りを想像できないかもしれないね。いつも仏頂面で、ボヤいてばかりいたんじゃないかって思ってるかもしれないけど・・・

この続きはプレミアムサービス
登録でご覧になれます。

まずは体験!登録後7日間無料

登録すると、2万本以上のすべての特集・インタビュー・コラムが読み放題となります。

佐藤道郎コラム 生中生無 死中生有

佐藤道郎コラム 生中生無 死中生有

パ・リーグ初代セーブ王・佐藤道郎の球人履歴書。

関連情報

新着 野球コラム

アクセス数ランキング

注目数ランキング