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佐藤道郎コラム 第31回「落合に聞いたんだ『初球スローカーブが来たらどうする?』って」

 

84年の落合。前半戦は不振が続いた


稲尾監督が四番で変えず


 稲尾(稲尾和久)さんが監督になったロッテに呼ばれて投手コーチになった1984年は、落合(落合博満)の6年目かな。まだ30歳になったばかりだったけど、前の年まで3年連続首位打者で、82年は三冠王にもなっていた。確か、その年のオフに信子さんと結婚したと思うけど、そのときはまだ独身だった。顔も今みたいにコワモテじゃなく、なかなか甘いマスクだったからモテてたよ。

 キャンプ中の2月14日はバレンタインデーだけど、ロッテは親会社がお菓子メーカーだったこともあって、何かそういうキャンペーンをしていたのかな。チームが人気ないわりにチョコがたくさん届いた。もちろん、選手だけだったけどね。俺は確か28個だったけど、娘とか知り合いばっかりさ。

 落合に「お前、いくつチョコもらったの?」と聞いたら「4つぐらい」って言うから、「天下の落合が大したことないな、俺だって28個だぜ」とからかったんだ。何か不思議そうな顔をして、そのときは何も言わなかったけど、あとで実際には100個くらい入った箱が4つだって聞いた(笑)。当時のロッテは、選手に箱でまとめて渡していたんだ。「それを早く言わんか!」だよね。あれは恥ずかしかったな。

 当時は、リーや有藤(有藤通世)がいたんで、落合が野手の中心というわけじゃない。詳しい数字までは分からないけど、前の年までは四番に完全に定着してたわけじゃなかったと思うよ。三番も多かったんじゃないかな。そこまでホームランを打ってたわけじゃないからね(83年は四番68試合、三番49試合でホームラン25本)。

 でも、リー、有藤はもうベテランで力が落ちてたし、稲尾さんは四番をしっかり定着させたかったから、打撃コーチの高畠(高畠康真)さんに「おい、四番で使える若い面白いヤツはいないか」って聞いていた。そのとき高畠さんが「落合がいますよ」って言ったのを覚えてる。30歳だからそんなに若くはないけどね(笑)。

 でもさ・・・

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パ・リーグ初代セーブ王・佐藤道郎の球人履歴書。

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