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佐藤道郎コラム 第32回「ウイスキー2本を一気飲みした酒豪・稲尾監督の話」

 

優しく豪快だった稲尾監督


3つ四球で二軍落ち


 前回は落合(落合博満)の話だったね。今回も、その続きでロッテのコーチ時代の話をしようか。

 監督になった稲尾(稲尾和久)さんに誘われて、1984年からコーチになった。あの年は首位の阪急には大差をつけられたけど、前の年の最下位から一気に2位になったんだ。チーム防御率もかなり改善したと思うよ。確か4点台(5.12から4.22)かな。4点台なんて大したことないと思うかもしれんけど、ロッテの本拠地は狭くて有名な川崎球場だし、ほかもパ・リーグの球場は狭かったからね。どうしたって打高投低になるわな。

 しかも、あの年はエースの兆治(村田兆治)がいなかったんだ。ヒジの手術のリハビリ中でね。先発はアンダースローの仁科(仁科時成)と深沢(深沢恵雄)、左腕の水谷(水谷則博)くらい。はっきり言えばコマは足りなかった。稲尾さんが「ミチ、優勝したら1000万円やるぞ」と言ってたことがあったな。本気だったかどうか知らんけど、稲尾さんからしたら、あとは投手陣と思っていたんだろうね。

 でもね、そこは投手コーチの腕、いや、そこまで偉そうには言わないけど(笑)、何とかやり繰りした。それにね、いなきゃいないで誰か出てくることもあるんだ。チャンスも回ってくるし、自分がやらなきゃと思うからなんだろうね。この年も深沢と前の年は2勝だったプロ2年目の日大の後輩・石川賢が15勝してくれた。2人は負けも1ケタで勝率もよかった(石川4敗、深沢8敗)。あとは仁科が13勝かな。130試合だし、3人で43勝の先発がいたら、一応、計算できるよね。しかも、ロッテ打線はよく打ったからな(チーム打率は.275でリーグ1位)。

 もともとロッテの投手陣がそこまで力がなかったわけじゃない。ただ・・・

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パ・リーグ初代セーブ王・佐藤道郎の球人履歴書。

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