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堀内恒夫の悪太郎の遺言状

堀内恒夫コラム 第15回「病気の親父といつもどおりに過ごし、静かに見送った最後の親孝行の思い出」

 

1年目のオフ、里帰りした筆者と両親


契約金はすべて借金に


 2週前のコラム巨人軍の後輩である横山忠夫(72歳)の誕生日の話を書かせてもらった。その記憶も新しいところで、もう一人の爺さんの誕生日にまつわる話をさせていただきたい。その爺さんとは俺のこと(笑)。1月16日で74歳になった。俺は自分の誕生日が近くなると、決まって体調がおかしくなる。昭和48年(1973年)に俺の誕生日が親父の命日になってからだ。

 明治38年(1905年)生まれの親父は山梨県甲府市で生糸工場を営んでいた。工場では毎日30人ほどが働き、商売は順調だった。子どものころの楽しみと言えば、親父に芝居に連れて行ってもらうことだったね。何カ月に一度、自宅近くの空き地に旅芸人一座の小屋が建つ。すると、親父は家族と工員全員を連れて芝居を観にいき、一座にのぼりを贈るときもあった。俺が野球を始めたいと言った昭和33年。小学5年生のとき。お袋に頼み、ユニフォーム、一部が革で補強された布グラブ、布スパイク、その年に巨人に入団した長嶋茂雄さんのサインが入った木のバットをそろえてもらった。木のバットなんて高級品だし、すぐに折れてしまう。当時の小学生にしては、なんともぜいたくなフル装備だったね。その後も、用具には不自由することなく野球を続けさせてもらえた。

 時代は進み、中国から安い生糸が輸入されるようになると、少しずつ経営が悪化していったのは、子どもながらに感じていた。俺が巨人に入団した年に、ドラフト制度が始まったが、それまではスカウトが選手のもとに足しげく通い、その熱意とお金で自由に獲得ができた。俺が高校2年生になると、俺が投げる試合のネット裏には各球団のスカウトが何人も座るようになった。なかでも・・・

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堀内恒夫の悪太郎の一刀両断!

堀内恒夫の悪太郎の一刀両断!

「悪太郎」こと巨人V9のエース、堀内恒夫氏の連載コラム。野球人生の集大成。

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