週刊ベースボールONLINE

堀内恒夫の悪太郎の遺言状

堀内恒夫コラム 第39回「甲子園大会へ出たのに西宮球場で敗退。これほど残酷な大会運営はないだろうね」

 

高校時代の筆者。甲子園球場とは縁がなかったが、プロになってリベンジすることになる


俺の時代の山梨県は甲府商と甲府工が2強


 今回は特集に合わせて、久しぶりに俺の高校時代の昔話をしようか。1960年代の山梨県は、甲府商高と甲府工高がシノギを削り合う2強と言われていた。

 俺は1963年4月に甲府商高へ入学した。前にも書いたかもしれないが最初は、ほぼ間違いなく、九分九厘、甲府工高に入ることが決まっていたんだけどね。ところが、甲府商高の監督・菅沼八十八郎さんが、「甲府工高は良いピッチャーが育たないから」と言って、俺の両親を説得して進学先をひっくり返してしまった。実際に当時の甲府工高にはあまり良いピッチャーがいなかったからね。

 菅沼さんは厳しい人で、いつも精神訓話みたいなことばかり話していた。でも、幸いに技術的なことは何も言わずに俺の才能を十二分に伸ばしてくれた。これはありがたかった。

 甲府商高には、県下の中学野球4大会で、すべて優勝した甲府南中のレギュラーのうち、俺を含めて8人が入学した。練習に参加した初日に、俺はピッチング練習中に投球を受けてくれた3年生のキャッチャーへボールをぶつけてしまった。俺のホップする真っすぐを捕り切れなかったんだね。その人は、もう二度と俺のボールを受けることはなかった。

 それからは小学校、中学校と、ずっと一緒に野球をやってきた田草川勝というキャッチャーが相手を務めるようになった。俺の速い真っすぐと大きなカーブは、当時の高校生レベルでは幼馴染(なじみ)の田草川くらいしか捕れなかったんだよ。

 1年生の俺はすぐレギュラーに抜てきされて、センターの守備位置を与えられた。エースは、3年生で卒業後に大洋へ入団する好投手の大石勝彦さんだった。

 甲子園を目指して1年夏の山梨県大会が始まると、俺たちは順調に勝ち進んだ。大石さんに代わって、俺もマウンドに上がる機会が何度かあった。結果、甲府商高は山梨大会で優勝を飾った。当時は例年なら、埼玉県の優勝校と西関東大会で当たり、そこで勝たなければ甲子園へ行くことはできない。ところが、63年の第45回夏の甲子園は記念大会で、各都道府県の代表校が大会へ出場することができた。

 ただ、例年よりも出場校は多くなるから、組み合わせによっては西宮球場で行なわれる「予選」を3回勝ち抜かなければ・・・

この続きはプレミアムサービス
登録でご覧になれます。

まずは体験!登録後7日間無料

登録すると、2万本以上のすべての特集・インタビュー・コラムが読み放題となります。

堀内恒夫の悪太郎の一刀両断!

堀内恒夫の悪太郎の一刀両断!

「悪太郎」こと巨人V9のエース、堀内恒夫氏の連載コラム。野球人生の集大成。

関連情報

新着 野球コラム

アクセス数ランキング

注目数ランキング