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野村克也 追悼号 野村克也と私

江本孟紀×佐藤道郎 野村克也追悼インタビュー 南海ホークス愛弟子TALK

 

ともに南海兼任監督時代の野村克也の部下であり、野村監督とともに1973年にリーグ優勝をつかんだ戦友でもある。佐藤道郎は1970年兼任監督1年目のドラフト1位選手、江本孟紀は72年に東映から移籍し、エース格の投手として開花した。

[左]野村監督と佐藤[右]江本と野村監督


長嶋氏と互いに激励


 1947年生まれの同学年。佐藤道郎は野村克也が兼任監督となった70年に日大からドラフト1位で入団。1年目から抑えとなったが、それでも規定投球回には達し、18勝6敗、防御率2.05で最優秀防御率、新人王にも輝く。当時、セーブ制度はまだ導入されていなかったが、リーグ最多完了をマークし、74年には最多セーブと最優秀防御率を獲得したタフガイだ。

 一方の江本孟紀は社会人の熊谷組を経て71年に東映入団。1年目は0勝4敗ながら、オフに南海に移籍となり、いきなり16勝をマークした。ただし、“元祖・野村再生工場”の見方には「違います」ときっぱり。もともと東映でも終盤は先発のチャンスをもらい、71年は先発ローテでと期待されていた。

 仲の良い2人とあって話が多少、脱線したが、2人の根底にある、野村さんへの感謝と寂しさは伝わってくる。

──野村さんが亡くなったという知らせはいつ。

佐藤 俺は友達がガラケーに入れてくれた。スマホじゃないよ(笑)。

江本 僕は第一報が新聞社からメールで来て、これはだいぶ早かったですよ。それでその後、朝9時半くらいかな。江夏(江夏豊)から電話が掛かってきて、「おい……、らしいぞ」と。「夜中に風呂に入って心臓止まったらしい」って。ちょうど、その日は沖縄にいて、名護での日本ハム-阪神の練習試合に行くつもりだったんですよ。それで同行していた担当者から「どうしますか」って言われて……どうしますかって言われてもね。正直、ちょっとうろたえました。「えっ、のんきに野球の取材なんかしていいのかな」って。

──うちのコラム(連載『本物の野球はどこへ行った!』)担当者も、亡くなる1週間前に取材をしましたが、いつもと特に変わらなかった、と。本当に突然でしたね。

江本 1月の金田(金田正一)さんを送る会で、みんなが着席してから長嶋(長嶋茂雄)さんと2人で入ってきて、車イスで来たんだけど、そのときも、そんなすぐどうこうという感じじゃなかった。ただ、寂しかったとは思いますよ。その前、カネさんが亡くなった直後、取材で会ったんですが、「次は俺か」と言っていた。本当はそう思ってないんだろうけどね(笑)。俺が「そうですよ。順番がそうなんだから」と言ったら「そうやな」と言いながら笑っていた。いろいろ思うことはあったと思いますよ。カツノリ(野村克則)から聞いたが、お別れ会のとき、長嶋さんと一緒に控室にいて、2人で「まだまだ頑張ろうぜ」と激励し合ってたらしいですよ。

佐藤 俺は解説の仕事をしてるわけでもないし、店(『野球小僧』)があるから滅多に会う機会はなかった。2年前に巨人とホークスOB戦が宮崎であって、そのときが最後かな。あいさつしたら、「おお、お前、店をしてるのか」って言われて、それで「お前は見合いを断りやがってな」と……。

──お見合い?

佐藤 昔ね。どうしてもと言われて、サッチーさん(故・沙知代夫人)の紹介で見合いをしたんだ。悪いが断ったけどね。もう50年近く前のことだけど、会うたびに言ってきたんだ(笑)。エモは結構、野村さんとは会っていたようだね。

江本 そうだね。俺は野村さんと共著で本を出すことになっていて、昨年の夏から何度か打ち合わせをしていた。それが全部終わって、11月に写真撮影があったんだけど、それが話した最後になるのかな。

──おふたりは野村さんと最初に会ったときを覚えていますか。

佐藤 ドラフトのときだね。69年秋のドラフト会議で南海から1位で指名されたんだけど、あのときは(東京)中野の実家にいたら、「監督があいさつに来ますから」と連絡が来た。オヤジも緊張して、「寿司か刺身を取ったほうがいいのか」って言ってたのを思い出すな。パ・リーグのことはそんなに詳しくなかったけど、ああ、この人が三冠王の野村さんかと。背広にネクタイで、わりと小さく見えた。ただ、あとでユニフォーム姿を見たら大きくてね。あっ、これがオーラなんだと思った。

入団会見での佐藤[右]と野村監督


江本 僕は東映を1年でトレードになって、南海に行ったんですけど、あいさつしたのは、その前。オフで田舎に帰る前に、友達がいるから南海の中モズの寮に遊びに行ったんですよ。あそこはグラウンドもあるから、そこで野村さんと会った。でも、そのときは、まさか自分が数カ月後に南海にトレードされるとは思ってもみなかったけどね。

佐藤 エモが後楽園でフリーバッティングで投げていたのを野村さんが見て、あれ欲しいとなったんだよな。

江本 そんなわけないよ、それは嘘(笑)。野村さんは高橋博さん(捕手)を出したかっただけ。東映も俺はドラフト外だし、こいつはいらないと思ったんじゃないの。現場は違ったけどね。

佐藤 当時の南海はいろいろなタイプのピッチャーがいたよな。

江本 個性的で、みんな特徴があった。だから・・・

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