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野村克也 追悼号 生涯一捕手から名将へ

【1970-1977 南海兼任監督時代】「考える野球」「殺し文句」で健闘も最後はチームと絶縁に 力勝負の世界から「考える野球」の発想へと進化

 

1954年、南海に入団してプロ野球人生のスタートを切った野村克也。しかし、当初はテスト生だったため、周囲の誰も、ましてや本人も、のちにプロ野球史に残る名捕手、名将になるとは思ってもいなかっただろう。栄光の野球人生の陰にあった数々の困難。それを乗り越えて超一流へと駆け上がっていった日々を振り返っていこう。

73年、前期優勝した南海は後期優勝の阪急をプレーオフで破って優勝。野村兼任監督が胴上げで宙を舞った


ヘッドコーチにブレイザーを要求


 1968年にコーチ兼任となった野村克也は、南海が最下位となった翌69年に辞任した飯田徳治監督の後任として選手兼任監督となった。35歳、プロ16年目の挑戦だった。

 当時、負担のかかる兼任監督には否定的だった野村だが、川勝傳オーナーの「野村は最後の切り札」という言葉に受諾を決めた。野村はこのときの条件として、コーチ陣の人事権を主張。一緒にプレーしていたドン・ブレイザーをヘッドコーチにするよう、強く要求した。

 カージナルズやレッズでプレーしたブレイザーは、67年に南海入り。身長177cm、体重76kgと小柄な選手だったが、メジャー・リーグでの経験は豊富だった。その成功の理由を野村は知りたかった。ブレイザーを連れ出していろいろと質問すると、ブレイザーは日本とメジャーとの違いについて「頭を使った野球かどうか」と即答。それまでの気合や根性を重んじていた精神野球とは違うアプローチに、野村は「我が意を得たり」とばかりに呼応する。

 兼任監督となった野村は、右腕となったブレイザーからさまざまなメジャー式の知識を吸収する。打者のクセや傾向に応じてこまめに位置を変える守備隊形や、走塁、インサイドワークなど緻密なメジャー仕込みの技術を導入。単純な力勝負の「投げて打つ」という世界から、それだけではない「考える野球」の発想へと進化させた。

 監督1年目のシーズンは2位と上々だったが・・・

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