“ブンブン丸”と言われ、自由奔放な関根潤三監督時代の代表的な選手だった。それが決め事の多い野村野球の中で、苦しみ、迷いながらも新境地にたどり着く。何より「勝つことの喜び」を知り、自身の野球人生に深みを増した。 現役時代の池山[右]と野村監督。直接打撃指導をするのは珍しい
ブンブン丸じゃ困る
1990年春季キャンプ。野村克也監督から最初に言われた言葉が「ブンブン丸、ブンブン丸って言われて、いい気になってんじゃないか。チームと監督が迷惑するだけだからな」だった。
それまでの“三振してもいいから思い切っていけ”から180度の転換。戸惑いもあったが、野村監督の野球を必死で学び、自分を成長させていった。
実は昨年春、野村氏、内藤尚行氏(元ヤクルトほか)との3人でヤクルト時代を振り返る座談会をしていただいたのだが、そのときの野村監督の言葉が強く胸に残っているという。
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最初は、「ほんとかな」という感じでした。1月20日のスワローズOB会でお会いしたばかりでしたからね。高津(高津臣吾・一軍)監督とあいさつに行き、3人で写真も撮らせていただきました。お元気そうだったのですが……。
西都(二軍のキャンプ地)から弔問に行かせてもらい、監督(野村氏。以下同)に会ったときですね、ああ、亡くなったんだと実感したのは。監督がヤクルトの、ホームのユニフォームを着てたんですよ……。そのとき感極まったというか、ボロボロ涙が出てきた。いろいろなチームを渡ってこられた方が、最後、ヤクルトのユニフォームを着ていてくださるんだなと思って。
その前、二軍監督に決まったとき・・・