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野村克也 追悼号

「月見草」野村克也と「ひまわり」長嶋茂雄の描いた慟哭の詩 あまりにも美しく哀しい男の双曲線

 

少年時代から南海時代まで、新聞記者として野村克也氏の話を幾度となく聞いてきた筆者。波乱万丈の半生記に耳を傾けながらいつも頭にあったのは、あの男との比較だったという。
取材・構成=水本義政


お母さんを楽させるねん


 少年期の野村克也は「無茶苦茶に巨人の、それも川上哲治さんのファンやった」と言っていた。

 そんなにあこがれたんですか……と聞いたら即座に「うん、そやからいつか俺は巨人にも入りたかった」と遠くを見るように言ったものだった。野村少年は中支戦争で父親を失い、小学2年で母がガンにかかり、生死をさまよう。辛酸をなめた。みるみる家の家財道具が消えていった……。いわゆる売り食い生活なのだ。

 日本海の凍(い)てつくような過酷な冬の寒さは想像を絶する。新聞配達、子守り、アルバイトに明け暮れた。

 しかし少年には夢もあった。

「野球選手になって、お母さんを楽させるねん」

 このころ、千葉の印旛郡臼井(佐倉)の村役場の収入役・長嶋利の長男・茂雄ははっきりいって恵まれた環境にあった。佐倉中学では野球部に入り、父親に後楽園球場に連れていってもらって「本当は巨人ファンだったけれど、みんながそう言うから『僕は阪神ファンなんだ』とわざとそう言ってみたりした」のである。

 ショートで四番の長嶋少年は印旛郡の中学大会で優勝している。

 野村少年は母から「中学を出たらちりめん問屋に丁稚奉公にいっておくれ」と言われていたから成績優秀なのに高校進学は一度はあきらめた。それでも、京大合格確実と言われていた兄が峰山高校を出た後、大学進学をあきらめて京都の島津製作所に就職「克也を高校に行かせてくれ」と言ってくれたおかげで、野村は峰山高校の工業科学科に入学する。

 数学にはべらぼうに強かった。のちにヤクルト監督として日本プロ野球に革命をおこす『ID(インポート・データ)野球』はここに原点があった。

 当時の峰山高は野球部員わずか10名。実際に雪深い峰山高を訪ねたことがあるが、強豪校ではないからグラウンドは左翼が段差になっていて、それを見ると切なかった。

 野村はバス代がないから新聞配達時代の古い自転車を譲り受けて、冬は雪道を通った。

ミナミのクラブで


 新米記者時代に南海の主砲となっていた野村克也によく、大阪・ミナミのクラブに連れていってもらった。なにもこっちは美女をはべらせて飲みたくなんかはない。私事だが、連日、午前サマになるので女房が頭にきて「私が野村さんに電話をする」とまで言い出したぐらいお供をさせられた。

 なに、高級クラブといったって、ノムさんはドテッと座ったまんま隣についた美女に適当なことを言ってるだけのマイペースだ。

「まあ野村さん、こちらどなた?」ン、こいつは弟……。「あらあ、全然似てないわねえ」そらそうや、女房(前妻・正子さん)の弟なんや……。かくていつも「正子夫人の弟役」も演じなければならなかった。そして、いつの間にか、どこからか杉浦忠投手が、やがて広瀬叔功選手が忽然(こつぜん)と現れて、この南海豪傑トリオはうだうだ言いながら酒をくみ交わしていたのである。

 でも、それが少しも「不快」ではなかった。そこが野村克也のチャーミングなところだった。

 実際には、すぐトラ番となってタカ番から離れ、“二日酔い地獄”からは脱出できたのだけれども。

 これはのちに田淵幸一に聞いたエピソードだが、長嶋さんから「ブチ(田淵)寿司でも食おうか」とお誘いがかかったそうだ。もちろん喜んで出掛けた。寿司屋に入り、まずおもむろに冷えたビールから始まり、適当な肴(さかな)でしゃべってから、さて「何から握ってもらおうか」となったら、すでに寿司を食いまくっていた長嶋さんは「ああ、食った食った。どうだ美味しかったかい。さあ行こうか」とスックと立ち上がったそうである。田淵は寿司なんか口にしていなかったのに、だ。もちろん、それでも少しも嫌な感じはない。

あまりに対照的な日々


 長嶋は佐倉一高3年のとき、立教大の砂押邦信監督の知人が新聞を見ていると、長嶋の記事が目に留まった。ついでだからこのナガシマというのを見ておこう、となった。これで砂押の目がテンとなった。やがて南関東大会で佐倉一高の長嶋はホームランを放つ。実はこのとき、巨人のスカウトが息せき切って長嶋家に駆けつけると父・利は「息子は大学に進学させたい」としてピシャリ。その結果、彼は立教大の経済学部経営学科に入学する。

 その6月に長嶋の父・利が急逝する。父は長嶋の手を握りしめて「茂雄よ、野球をやるなら日本一のプロ野球選手となれ!」と言い残した。

 このころ、南海ホークスの入団テストを受験した野村少年は峰山高の野球部長・清水義一の南海鶴岡監督様』という推薦状だけが頼り。11月23日に大阪球場で入団テストに挑んだけれど、なにしろ、その他大勢の一人なのだ。

 何とか合格。ただ、もちろん契約金ゼロ。月給は7000円だった。背番号『60』支給されたユニフォームは鶴岡一人(当時は山本姓)監督の着古した中古品。チームの支配下選手としてパ・リーグ連盟に登録されたのが開幕日も過ぎた5月31日だった。

 月給7000円のうち・・・

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