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野村克也 追悼号

1954-2009 野村克也、栄光の記録

 

選手として監督として幾多の大記録をつくってきた。ただし、その選手時代の記録の多くは、一度はトップに立ちながら抜かれたものだ。
文=永山智浩

63年につくったシーズン最多新ホームラン記録52本は、翌年には巨人・王貞治に抜かれている


[選手時代]主要4部門ですべて2位


 1954年に南海にテスト入団した野村克也。1年目は9試合に出場したものの安打も打てず、2年目は一軍出場なし。そのころは誰もプロ野球史で語り継がれるほどの名選手になろうとは思わなかっただろう。

 3年目の56年、鶴岡一人監督に抜てきされ129試合に出場し、安打、本塁打も記録。翌57年は初めて全試合に出場し、30本塁打をマークし初の本塁打王を獲得。初の規定打席到達で打率3割も記録した。132試合すべてにスタメン出場し108試合で四番に座り、4年目にして「主砲」にまで成長した。

 61年から8年連続本塁打王、62年から6年連続で打点王を獲得しているが、これは連続タイトルのリーグ記録。65年には打率.320、42本塁打、110打点で戦後初、史上2人目の三冠王を獲得。首位打者を獲ったのはこの年だけだったが、本塁打王9回は王貞治(巨人)の15回、打点王7回も王の13回に次ぐ歴代2位の記録だ。

「記録は塗り替えられるためにある」とよく言われるが、野村は記録を何度も塗り替えトップに立ったが、何度も塗り替えられた。

 71年5月1日、史上5人目の通算2000試合を達成すると翌72年10月9日には、それまで日本記録だった山内一弘を上回る通算2236試合出場を果たした。西武時代の80年8月1日には前人未到の通算3000試合を達成し、3017まで記録を伸ばし引退した。この記録は2015年に中日・谷繁元信によって塗り替えられるのだが、72年から約43年間プロ野球記録として君臨した。

 三冠王を獲った65年には8月8日に山内一弘に次ぐ通算300本塁打を達成。その年には現役だった山内を抜き3本差でトップに立った。68年7月12日に400、71年7月2日は500、72年9月28日には550本塁打と順調にプロ野球記録を伸ばしていったが、のちに「世界のホームラン王」と呼ばれた巨人・王貞治がひたひたと追ってきていた。73年8月8日に並ばれ、シーズン終了時には6本差を付けられての2位。最終的には211本差を付けられるわけだが、657本は歴代2位。野村が600号を打ったのは75年、以後45年間600本を超えた選手は出ていない。

 野村は63年にシーズン最多本塁打も記録した。それまでの記録は2リーグとなった50年に松竹の小鶴誠が記録した51本。ちなみにパ・リーグ記録もその年の別当薫(毎日)で43本。戦後まもなくはハデなホームランが求められた時代で、その前年から「ラビットボール」と呼ばれた飛ぶボールを使用して51本というとてつもない記録が生まれたのだが、その翌年からラビットボールを使用せず本塁打数は激減。20本台の本塁打王もあり、現に野村も2度目のタイトルとなった61年は29本だった。51年から61年まで両リーグでの本塁打の最高は53年の中西太(西鉄)の36本。40本にすら届いていなかった。

 ところが62年・・・

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