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野村克也 追悼号

<SPECIAL>沙知代への手紙

 

沙知代へ。


95年、息子・克則の入団会見で


 男は弱いものだなとお前がいなくなった今、しみじみ感じている。

 だれもいない家に一人でいるのは、寂しくて仕方ない。いるとうるさいと思ったのに、いないと寂しいんだ。

 お前が逝ったのは冬だったから、あのころは仕事が終わって家に帰ると家の中が冷え切っていて、ものすごく堪(こた)えた。今も家に帰ったとき真っ暗だと寂しくて、電気をつけたまま家を出ているよ。

 これまでは俺が仕事を終えるころ、お前がやってきて、一緒に夕食をとり、2人で家に帰っていた。お前の姿が見えると、取材相手には「怖い人が来たよ」と言って、“巻き”のサインを送ったものだ。

 今は「これが終わると、誰もいない家に帰るんだよ。憂鬱(ゆううつ)だな……」「一人でメシを食うのは寂しいもんだよ」と、つい口に出てしまって、おそらく取材相手を困らせている。

 お前が逝く1年ほど前から、2人で死について話すようになっていたな。でも「俺より先に逝くなよ」と言ったとき、お前は何も返事をしなかった。俺より3つ上だから、自分のほうが先だと自覚していたのだろうか。

 俺たちの出会いは、俺が南海の兼任監督になった1970年の夏だった。東京遠征のとき立ち寄った、なじみの中華料理店。俺が昼飯を食べていたら、お前が店に駆け込んできた。店のおかみさんに、「監督、いい人を紹介してあげる」と言われ、テーブルをともにした。

 お前はまるっきりの野球音痴で、俺のことなどまったく知らなかった。だけど2人の子ども(ダン、ケニー)が野球少年だからと言って、その場で子どもたちに電話していたな。

「あなたたち、野球の野村さんって知ってる?」

 ダンの、「すごい人だよ」の一言で、お前も俺が何者かやっと分かったようだった。

「お子さんたちがそんなに野球好きなら」と、その日の後楽園球場のチケットを渡すと、さっそく3人そろってネット裏に来てくれたな。

 あのころは、まさかお前と結婚することになるとは思ってもみなかった。俺は最初の妻と別居し、離婚手続き中。そのうえ兼任監督として初めてのシーズンで、何かと悩み事が多かった。お前は俺と正反対のさっぱりした性格だったから、話を聞いてもらえると、心が楽になった。

 一方で、お前はやはり母親だった。自分が生んだ子ども中心に、物事を考えていったのだと思う。

 当時のお前は、ボウリング用品の輸入代理店を営んでおり、自立した女だった。しかし、子どもたちが私のことを「すごい人」と尊敬のまなざしで見ているのを知り、「この人なら」と考えたのだろうな。おかげで子どもたちとは何の問題もなく、家族になることができた。

 子どもたちからしてみれば、本当の父親ではないうえに、「母親を取られた」とジェラシーを感じて当然だったはずだ。それを、野球が救ってくれた。

 野球が私たちを、家族として結びつけてくれたのだ。

 ところが・・・

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