週刊ベースボールONLINE

よみがえる1970年代のプロ野球

【70年代のプロ野球を語る】ロッテ・有藤通世「同じドラフト1位の野手には負けたくない。プロで長くやれたのもその気持ちがあったから」

 

1年目から新人王、2年目には3割を打ってリーグ優勝。ロッテ誕生とともに入団した期待のドラフト1位はそれ以後、チームの主力選手に成長して大きな存在感を発揮し続けた。パ・リーグを代表したスラッガーが語る70年代の思い出。
取材・構成=牧野正、写真=BBM
週刊ベースボール 別冊冬桜号 よみがえる1970年代のプロ野球 EXTRA(2) パ・リーグ編
2022年12月27日発売より


実力はもちろん、プロ意識も高かった有藤。ベストナインは10回、70年代のオールスターゲームはすべて選出された


迷えるドライチ


 のちに“ミスター・ロッテ”と呼ばれ、チームの顔となった有藤通世は高知県出身。高知高時代は2度の甲子園出場を果たし、卒業後は近大へ進学した。同級生には田淵幸一、山本浩司(のち山本浩二)、富田勝の法大三羽ガラス、星野仙一(明大)に大橋穣(亜大)ら、多くの有望選手がいた。関西にいた有藤の知名度は彼らよりも低かったが、実力は負けていなかった。東京オリオンズがドラフト1位で指名。だが、有藤はプロ入りを迷っていた。

 お袋と2人の母子家庭でしたから、プロに入ったはいいものの、すぐにクビになってしまっては食べていけませんから、そこが大きな不安でした。だったら社会人野球に進んで安定した生活をしたほうがいいんじゃないかと。そういう気持ちが強くて、近大の監督には社会人野球に行かせてほしいと頼んでいました。ですから希望球団も特になかったですし、オリオンズに1位で指名されても、うれしいというよりもどうしたものかと。それでも監督から「プロに入って自分の腕を試してみろ」と言われて決断しました。ただ、大学のほうには25歳までにポジションを獲れなかったら(職員として)帰らせてくれと保険をかけてね(笑)。今もそうですけど、プロ野球は水商売のようなもの。頼りになるのは自分の力だけですから。

 プロに行くと決めたからには同じドラフト1位の連中には負けたくないと思いました。特に東京六大学卒の野手ですよ。(山本)浩司とか、田淵とか、それはプロに入ってからも同じで、プロで長くやれたのもその気持ちが常にあったからだと思います。

 僕は守備が下手でね。プロで生き残るためにはバッティングしかないと思っていました。最初はまったくプロの投手についていけず、レギュラーでもなかったんですが、たまたま三塁を守っていた選手が故障して先発で使ってもらったんです。その試合で・・・

この続きはアプリでご覧になれます(無料)。

アプリ限定コラム

アプリ限定コラム

アプリ限定コラム

関連情報

新着 野球コラム

アクセス数ランキング

注目数ランキング