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よみがえる1970年代のプロ野球 70年代の記憶

【70's ライオンズの記憶】九州の野球ファンが直面した悪夢の10年間 西鉄から太平洋、クラウン、そして九州ライオンズ消滅へ

 

1956年から日本シリーズ3連覇を果たすなど栄華を誇った西鉄ライオンズ。しかし、「黒い霧事件」で戦力が低下すると身売りすることに。その後も球団経営が好転することなく、ついに九州の地からライオンズが消える事態に陥ってしまった。
写真=BBM
週刊ベースボール 別冊冬桜号 よみがえる1970年代のプロ野球 EXTRA(2) パ・リーグ編
2022年12月27日発売より


1978年10月、ライオンズ球団譲渡契約書にサインした堤義明西武オーナー[左]、中村長芳クラウンオーナー


「黒い霧事件」が発端


 1970年代はライオンズにとって激動の日々だった。事の発端は69年に起こった。同年10月、読売新聞、報知新聞に「西鉄ライオンズ・永易将之投手が敗退行為を行っていた」とのスクープ記事が掲載されたのだ。いわゆる「黒い霧事件」。一部選手らが関与した八百長事件は社会問題化し、戦力も低下。70年から3年連続最下位と、かつて56〜58年に3年連続日本一を達成した黄金時代の強さは見る影もなくなった。観客動員が落ち込み、人気も低迷。親会社の西日本鉄道がライオンズを手放すことを決断したのは72年だった。

 当時、ロッテのオーナーを務めていた中村長芳はパ・リーグに一任されて西鉄の譲渡先探しに奔走。しかし、うまくいかない。そこで、自らが西鉄を買収することを計画したが、野球協約では複数球団の保有は禁じられている。このままでは西鉄は消滅し、パは5球団となってしまう。中村オーナーはロッテのオーナー職を辞すると福岡野球株式会社を立ち上げる。そして10月27日、西鉄の木本元敬オーナーが球団を譲渡すると発表した。中村オーナーとともにロッテのフロントから移り、球団社長となった坂井保之氏によると西鉄の譲渡額は1億円だったという。

「中村は家屋敷から郷里・山口の土地から自宅の美術工芸品、奥さんの宝石まですべて売り払い、その1億円を工面したんです。まず、手付金として5000万円の小切手を私が持たされた。その後、球団譲渡調印式の際、残りの5000万円を中村が払って新球団が誕生したんです」(坂井氏)

 福岡野球株式会社は従来のプロ野球の親会社と違い、何らかの業態を有した企業体ではなかった。そこで坂井氏はまず設立間もないゴルフ場、リゾート開発専門会社「太平洋クラブ」とスポンサー契約を結ぶ。今でいうネーミングライツ契約だ。こうして新球団名は太平洋クラブ・ライオンズとなった。

「遺恨試合」で観客動員


 太平洋クラブは球団経営にタッチせず、資金提供のみ。坂井が経営のカジ取りを任されたが・・・

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