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よみがえる1970年代のプロ野球 70年代の記憶

【70's ブレーブスの記憶】上田阪急が築いた第二次黄金期 打倒・巨人の熱き思い

 

あと一歩が届かない──。西本幸雄監督が指揮を執った1973年まで、5度のリーグ優勝を果たしながら日本一は未達。5度すべて巨人のカベに跳ね返されてきた。74年に上田利治監督が就任すると、『打倒・巨人』を胸に秘めたナインを熱く鼓舞。分厚い戦力が束になって悲願を成就させ、黄金期が幕を開ける。
写真=BBM
週刊ベースボール 別冊冬桜号 よみがえる1970年代のプロ野球 EXTRA(2) パ・リーグ編
2022年12月27日発売より


就任2年目の1975年。上田監督の下、広島を破って球団初の日本一に。だが、まだ目標には未達だった


悩みと辛抱


 37歳。青年監督にとって波乱の船出だった。1974年、西本幸雄監督のあとを受け、ヘッドコーチだった上田利治監督が内部昇格する形で監督に就任したのは、前年(73年)のプレーオフで南海に敗れたあと、「責任を取りたい」と西本監督が突然の退任を表明したため。当時・ヘッドコーチの上田も一緒に辞めるつもりだったが、「西本さんから俺のあとはお前しかおらん。俺も球団に残ってバックアップするから一緒に強い球団をつくろうと言われ、引き受けた」と明かしている。だが、周囲に「裏切られた」ともらしたこともあったのは、西本が翌74年に近鉄の監督に就任したためだった。

 それ以上に上田は戸惑った。何せ67年の球団初優勝から5度のリーグ制覇と、偉大な指揮官の後任は簡単なことではない。優勝回数が物語るように確かな“黄金期”を築いている。戦力も若きエース・山田久志、韋駄天・福本豊、加藤秀司(英司)らを育て上げ、当然なおも主力とあって自分の色を出しにくい。「いろいろ悩みましたが、だったら選手みんなと一緒に汗をかきながら、いいことはいい、悪いとこは悪いで、矯正しながらやっていこうと思いました」とのちに語った中で、まず実践したのがキャンプの猛練習だ。特にディフェンス面を徹底的に鍛え上げ、西本時代のベースアップを図っていった。

 迎えたシーズンは、前後期制となって2年目。前期、序盤は飛び出したロッテをとらえきれず。だが、上田監督は「一に辛抱、二に辛抱、三、四がなくて五に辛抱。監督業は辛抱さ」と笑っていた。読みどおり、ロッテは失速。5月19日に首位に立つと、太平洋が加わり三つ巴(どもえ)の戦いを制した。

 奇しくも優勝が決まったのは西京極球場。敵軍・近鉄ベンチには、西本監督が座っていた。

 上田監督は声を震わせる。

「監督を引き受けてすぐ優勝できるなんて、僕はなんて幸せ者だろう。前期とはいえ、うれしさに変わりはない」

 だが、喜びから一転。後期は3位に終わって進出したプレーオフでは、後期優勝のロッテに3連敗。この苦杯が監督人生の始まりだった。

「頭をガツンとどつかれたようなショックが、自分の監督人生の本当のスタートになった。やるからには、死んでも勝たなあかん」

初の頂も、残されるカベ


 西本時代の73年から2年続けてプレーオフ敗退。短期決戦用の戦力の必要性と戦い方の重要性を痛感せずにはいられない。「阪急は短期決戦に弱い」は定評となっていた。

 そこへ入団してきたのが・・・

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