週刊ベースボールONLINE

90's バファローズの記憶

野茂英雄が駆け抜けた5シーズン トルネード右腕の真実

 

1990年代のスタートとともに出現したトルネード右腕・野茂英雄。日本球界に在籍したのはわずか5シーズンだったが、強烈なインパクトを残して海を渡った。優勝とは縁がなかったが、その雄姿は強烈なインパクトとして野球ファンの心に刻まれている。
構成=富田庸 写真=BBM

相手打者に背番号を見せるほど体をひねるトルネード投法。これを貫き名投手への階段を上がっていった


独特投法へのこだわり


 運命のドラフト会議が開催されたのは1989年11月26日、東京・赤坂プリンスホテルだった。指名順トップのロッテから始まり大洋、日本ハム、阪神、ダイエー、ヤクルト、オリックス、そして近鉄。史上最多となる8球団が野茂英雄を指名した。

 抽選では“残り福”を引き当てた近鉄・仰木彬監督が誇らしげに右手を挙げる。中継を見守っていた野茂は「大阪に残れるんだったら……。仰木監督には、優しそうでいい人という印象があります」と好感触を口にした。翌日、仰木監督は新日鐡堺へ指名あいさつに訪れると、「早速会えてうれしい。素晴らしい体だし手も大きくて、これでピッチャー。早く投げるところを見てみたいよ」と興奮気味に話した。

 それでも、野茂には金銭面のほかに譲れない部分があった。体を大きくひねって投げる、独特な投球フォームだった。「フォームは絶対いじられたくない」。これについて仰木監督は「壁に突き当たるまで、いいものを直す必要はない」と明言。入団に際して障壁は存在しなかった。

 以降、仰木監督の口からはことあるごとに「野茂」が飛び出すようになる。「全球団のスカウトが『球速は抜群、それに球質は非常に重い』と言っている。それだけじゃないよ。うちのスカウトはもちろんのこと、全球団スカウトが2ケタ(勝利)は計算できると見ている。彼のピッチングを一日も早く、この目で見たい」。期待は膨らむばかりだった。

 野茂は当時のインタビューでこう答えている。「新聞とかに“15勝”なんて書かれると、プレッシャーが掛かるんです」。だが、そんな心配は無用だった。野茂は世間の期待に答えるどころか、それを上回る成績を残してみせたのだ。

 注目のルーキーイヤー、オープン戦から開幕直後は不本意な投球が続いた。プロデビュー戦となった4月10日の西武戦(藤井寺)では6回5失点で敗戦投手に。続く18日のオリックス戦(日生)では8回途中まで投げ続けるも7失点。この時点で防御率は7点台まで悪化していた。近鉄は開幕2戦目から9連敗を喫するなど、チームも自身もモヤモヤした状態だった。野茂がそんな空気を一掃したのは、29日のオリックス戦(西宮)だった。プロ野球タイ記録(当時)となる17奪三振をマークし、9回2失点でプロ初勝利を見事なまでの完投で飾った。この日は奇しくも仰木監督55歳の誕生日で、最高のお祝いとなった。それでも野茂は「17三振は結果でしかありません。僕は、試合に勝つことしか考えていない」といつもどおり、感情をあらわにすることはなかった。

“魅せる”投球とは


 入団時に話題に上がった独特な投球フォームは“トルネード”と呼ばれるようになった。親会社の近鉄がこの投法についてニックネームを公募したところ・・・

この続きはアプリでご覧になれます(無料)。

アプリ限定コラム

アプリ限定コラム

アプリ限定コラム

関連情報

新着 野球コラム

アクセス数ランキング

注目数ランキング