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90's ドラゴンズの記憶

1954年西鉄と並ぶプロ野球タイ記録の軌跡 限りなくVに近づいた開幕11連勝

 

1998年日本一の横浜、そして強力打線の長嶋巨人を倒し、90年代最後のシーズン、優勝を手にしたのは星野中日だった。持ち味の投手力を前面に押し出し、先行逃げ切りが勝ちパターン。強く、鮮やかだった開幕ダッシュをあらためて振り返ってみる。
構成=牧野正 写真=BBM

第二次星野政権の4年目、ナゴヤドーム誕生3年目にしてセの頂点へ。これ以上ない開幕ダッシュでペナントレースの主導権を握り、優勝を飾った


山田コーチと武田の加入


 1999年はナゴヤドーム誕生から3年目、星野仙一監督が2度目の監督となって4年目のシーズンだった。優勝は88年から10年も遠ざかっていた。しかし、決して下位に低迷していたわけではない。優勝争いは何度も経験し、90年代は2位が5回。それは巨人との最終決戦「10.8」を持ち出すまでもなく、勝負弱さと見ることもできるのだが、戦力は他球団と比べても決して劣っていたわけではない。実際、前年の98年も38年ぶりのリーグ優勝を果たした横浜に、最後まで食らいついていったのが中日だった。

 97年の最下位から横浜と優勝争いまでできるようになったのは、広いナゴヤドームを背に投げた投手陣の充実だろう。98年のチーム防御率3.14はリーグトップ。6年目の野口茂樹、ルーキーの川上憲伸がともに14勝で、防御率の1位と2位だった。リリーフ陣も強力だったが、それはこの年に就任した宮田征典コーチの存在が大きかった。

 現役時代は“8時半の男”として一世を風靡(ふうび)した男の手腕を、星野監督も絶賛していた。しかしその宮田コーチは1年限りで古巣の巨人へ呼び戻されることになった。怒り心頭の星野監督だったが、その代役として白羽の矢を立てたのが、元阪急のエースだった山田久志だ。山田はオリックス時代に仰木彬監督の下で94年から投手コーチを務めて2度のリーグ優勝に貢献したが、97年からは野球解説者として仕事をしていた。巨人の長嶋茂雄監督からも声を掛けられていたものの、夫人の病気を理由に断り続けていた。星野監督はそれを知りながらも果敢にアタックを続け、ついに口説き落とすことに成功した。

 星野監督はさらにダイエーからFAで最多勝を手にしたばかりの武田一浩を獲得。武田は福岡の地を気に入り、チームも優勝できるだけの力はついたと王貞治監督が率いるダイエーに残るつもりでいた。武田が苦笑して言う・・・

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