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レジェンドを訪ねる 昭和世代の言い残し

【レジェンドを訪ねる】柴田勲(巨人) インタビュー<3> 史上空前の9年連続日本一「史上空前の9年連続日本一、ONと一緒に達成できて自分はラッキーだった」

 

昭和世代のレジェンドの皆さんに、とにかく昔話を聞かせてもらおうという自由なシリーズ連載。トップバッター・柴田勲さん編の最終回です。野球のことから私的なことまで、赤裸々に語っていただきました。
文=落合修一

柴田勲


赤い手袋は米ゴルフ場で購入


――法政二高のエースとして甲子園夏春連覇し、巨人に入団も1年目(1962年)に打者転向、スイッチヒッター挑戦。2年目(63年)に早くもレギュラーとなった話の続きです。65年からジャイアンツは9連覇へと進んでいきます。ON砲(王貞治長嶋茂雄)の全盛期でしたが、ONはどういう存在でしたか。

柴田 長嶋さんは僕が子どものころからあこがれの存在で、雲の上の人でした。王さんは、僕が甲子園に行くきっかけをくれた方です。王さんが早実時代にノーワインドアップ投法でセンバツ優勝されて(1957年)、優勝旗が初めて箱根の山を越えたんですよ。その王さんにあこがれて、僕も法政二高でピッチャーをやろうと思ったんです。そういう2人と同じチームで一緒に野球ができる喜び。それは無上のものがありましたよね。

――柴田さんも主力になりました。

柴田 僕がラッキーだったのは、足が速かったこと。そのおかげで、あの打線の中で生き残ることができました。川上(川上哲治監督)さんが、出塁率が良くて足の速い選手をONの前に置きたかったところに、僕がちょうどハマった。63年に一番に定着したとき、二番は国松彰さんで僕ら2人合わせて79盗塁したんです(柴田43、国松36)。ONの打点も上がり(62年は計165だったのが、63年は計218)、チームは優勝しました。64年は優勝を逃したのですが、65年に土井(土井正三)が入団してくると僕との新しい一、二番コンビが誕生し、そこから9連覇。

――68年には高田繁さんも入団しました。

柴田 高田が入ってきたら高田を一番で使えるので、川上さんは僕を「打てる五番打者」にしようとしたんですよ。あれは失敗でした。

――巨人はONに次ぐ五番打者が人材難で、柴田さんはONに次ぐ「3番目に打てる人」だったわけですよね。だからある意味、当然のような気もします。

柴田 僕の長打力を生かすために、川上さんからは・・・

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