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レジェンドを訪ねる 昭和世代の言い残し

【レジェンドを訪ねる】権藤博(中日)インタビュー<1> 429回1/3と酷使されたプロ1年目「つぶれるなら本望でしたよ」

 

昭和世代のレジェンドの皆さんに、とにかく昔話を聞かせてもらおうという自由なシリーズ連載。今週からは権藤博さんのインタビューです。「ベイスターズの優勝監督」の印象が強いですが、現役時代は中日ドラゴンズ一筋。まずは入団1年目の思い出から伺いました。
文=落合修一

権藤博


プロ1年目の35勝は「大した成績ではない」


――ブリヂストンから1961年にプロ入り。ドラフトのない時代、なぜ中日を選んだのですか。

権藤 巨人に行こうと思ったこともあったんですよ。高校のときに西鉄から話があったんですが、そのときは体も細かったし、プロは無理かなと思って社会人のブリヂストンに進んだら体が強くなって、そこで誘ってくれたのが巨人だったんです。巨人に入る流れだったんですけど、私ならもう1年ほっといてもいいだろうということで、巨人は堀本律雄さんと北海道の高校生(荻野一雄)を獲ったんですね(1960年)。私はそのオフに入団の予定だったのが、今度は西鉄と中日に誘われました。巨人は好きだったし入るつもりだったのですが、私は田舎者だったから中日くらいがちょうどいいかなと思ったんです。

――九州北部で生まれ育って、西鉄は地元球団でしたよね。

権藤 地元だったんですけど、熱心に声を掛けてくれたのが巨人と中日だったんですよ。その2つに絞られて、もう巨人だと思っていたんですが、巨人からは中日より多く、いくらでも出すって言われたものの、具体的な提示がなかったんです。スパッと言われていたら、そこで決まったんですけどね。

――1960年なら、長嶋茂雄さんはプロ3年目のスーパースターでしたよね。同じチームでやりたいというあこがれの気持ちは?

権藤 そんな、そんな、あこがれなんて……。自分みたいな田舎者が恐れ多い。中日くらいがちょうど良かったんですよ。そういうふうに考えちゃったんですよね。

――その時点で、自己評価があまり高くなかったようですね。

権藤 いや、社会人で知っていた堀本さん(日通浦和出身)がプロ1年目(60年)から29勝、北川芳男さん(日本ビール→国鉄)はプロ1年目(59年)に18勝。だったら私は最低でも15勝くらいできるかな、と思っていました。実際に、プロに入って春季キャンプで一緒に投げている投手たちを見ても、自分のほうが力がありました。オープン戦が始まると、「2ケタは勝てる」と確信しましたね。対戦したパ・リーグのバッターたちが「夏場のスタミナさえ問題なければ15勝はするだろう」とコメントしていたのですが、社会人では夏場の炎天下、芝なんかなくて照り返しのすごい土のグラウンドで4連投、5連投としていたわけですよ。プロは涼しい夜に試合をするわけですから、いくらでも投げられるなと。

――だからといって、投げ過ぎましたよ(笑)。1年目の61年は2リーグ制最多記録の429回1/3(35勝19敗)。

権藤 このくらいでつぶれることはないと思っていました。もしつぶれても・・・

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