昭和世代のレジェンドの皆さんに、とにかく昔話を聞かせてもらおうという自由なシリーズ連載。権藤博さんのインタビュー最終回は「ダイエーコーチ、横浜コーチから監督」以降のことを伺いました。 文=落合修一 権藤博
60歳の新監督は「まだ早い」と思った
──
前回は1989年限りで近鉄コーチを辞任したところまでお聞きしました。その続きです。91年にはダイエーのコーチに就任しました。
権藤 ダイエーでは、根本(
根本陸夫。93年から監督)さんが次のワンちゃん(
王貞治監督)にどうやってつなごうかとしか考えていなかったです。
──その前の
田淵幸一監督(92年まで)はどういう監督でしたか。
権藤 お人好し。田淵は、某コーチに騙されたんですよ。そのコーチは田淵に「次は権藤が監督の座を狙っている」と吹き込んだの。でも本人は中洲で「次は俺が監督だ」と言っていたらしい。ほかにもいろいろ言われて、田淵は私と話さなくなってしまった。すべてが終わったとき、田淵が気付いて「すみませんでした」と言ってきました。田淵はナイスガイなんですよ。
──当時のダイエー投手陣はどうでしたか。
権藤 全体的に弱かったけど、
下柳剛が良くなっていたんですよ。でも根本さんはトレードに出しましたね。下柳はその後、
日本ハム、
阪神などで大活躍(笑)。ダイエーの先発エースは村田(
村田勝喜)で、素材はすごかったけど、変わり者だったなあ。ダイエー投手陣の土台を作って「これからだ」というときに私はクビになった(93年限りで退団)。王監督を迎えるために、私は必要なかったのです。
──横浜ベイスターズの話題に移りましょう(笑)。まず、
大矢明彦監督時代の97年に、バッテリーチーフコーチに就任します。
権藤 捕手も投手も一緒に見るという立場でした。もともと・・・
この続きはプレミアムサービス
登録でご覧になれます。
まずは体験!登録後7日間無料
登録すると、2万本以上のすべての特集・インタビュー・コラムが読み放題となります。
登録済みの方はこちらからログイン