昭和世代のレジェンドの皆さんに、とにかく昔話を聞かせてもらおうという自由なシリーズ連載。「悪役」の俳優として一時代を築いた八名信夫さん編の最終回は、東映フライヤーズ時代のお話の続きです。 文=落合修一 八名信夫
登板数が少ない理由は「グダグダに……」
――
前回からの続きです。エース・
米川泰夫さんが契約交渉に同席し、1956年に入団した東映フライヤーズでは、次期エース・
土橋正幸さんと同い年の同僚だったんですよね。
八名 そうそう。土橋のほうが入団は早かった(55年)けどね。彼は浅草の魚屋のせがれで、ヨネさん(米川)は彼のこともかわいがっていてね。土橋が魚をヨネさんの家に持ち込んで、夜になるとみんなで酒を飲んでいたなあ。僕は二線級だったので試合前の打撃練習で投げていたのですが、バッターはそこでたくさん打つことによって前日の酒を抜いていました。僕は練習でたくさん投げたから試合は出番がないと思っていたら、先発が4、5点取られて、「おい、次、お前、投げろ」と突然言われることがありました。
――今で言う敗戦処理。
八名 そんなだったから、投げても勝ち星なんか付かないんです。
――だから通算成績が0勝1敗だったのですね。
八名 先発は、何回したかな?
――記録によると3年間で通算15試合登板のうち、先発は2試合です。
八名 1敗は、近鉄戦、阪急戦、どっちだったかな。
――1敗は、高橋ユニオンズ戦(56年8月12日、駒沢)ですね。先発して3人の打者に2点を取られ、そのまま降板して敗戦投手です。八名さんは3年間の現役生活で15試合登板、28イニングだけ。選手層が厚くない時代なのに、意外と少ないです。何が原因だったのですか。
八名 酒を飲んでグダグダになっていたからねえ。給料日になると・・・
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