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レジェンドを訪ねる 昭和世代の言い残し

【レジェンドを訪ねる】徳武定祐(国鉄ほか)インタビュー<1>伝説の早慶六連戦「天皇杯をいただいたから、その後の人生の心の支えになった」

 

昭和世代のレジェンドの皆さんに、とにかく昔話を聞かせてもらおうという自由なシリーズ連載。今回からは早実、早大、プロと球界のエリート街道を歩んだ徳武定祐さんです。まずは、早実で苦労した高校時代の話から。
文=落合修一

徳武定祐


とても厳しかった早実での日々


――野球を始めたのは何歳のときですか。

徳武 僕は青森の五戸というところに疎開したときに生まれまして、そこで野球を初めて経験したんです。グラブもないし、棒っ切れで打つような遊びの三角ベースですよ。終戦後、僕が小4だった9月にお世話になっていた家の人が東京の病院にかかることになり、僕も一緒に東京に出たんです。それが今にして思えば、人生の分岐点でしたね。あそこで出ていなかったら野球選手にならず、ずっと青森にいたかもしれません。東京では北区に住んだのですが、たまたま近くに野球チームがあって、飛鳥山公園のグラウンドで本格的に野球を始めました。

――最初から、周囲より野球が上手だったのですか。

徳武 全然そんなことなかったですよ。ただ、熱心な監督に鍛えられたのが、その後につながったのかなと思いますね。次の人生の分岐点は、中学校の入学です。普通なら地元の公立中に進むところでしたが、親父が日大で野球をやっていたので本格的に野球をやるならと、私立の早稲田中に行くことにしたんです。中学でも良い指導者に恵まれ、今度は高校進学です。そのまま進めば早稲田高なんですが、当時は硬式野球部がなかったんですね。僕は高校で硬式をやりたかったので、日大の監督だった香椎(香椎瑞穂)さんに相談したら「早実は厳しい学校なので、本格的に野球をするなら良いのではないか」と言われたので、早実高等部の試験を受けたんです。

――一般受験だったんですね。

徳武 はい。推薦とかじゃないです。普通に受験したら合格できたので早実に入学し、そこで硬式野球と出合いました。

――当時は早実の校舎は早稲田にあったんですよね。

徳武 はい。早稲田中・高は今でもありますけど、道路一本挟んだ隣に早実があったんです。入ってみたら、これがやっぱり厳しいんですよ。早稲田中ではお山の大将でやっていたのに、早実では「えらい学校に来たなあ」と。「集合」と言われたら1年生は全員、砂利の上で正座。すると僕が最初に「説教」をやられるわけです。

――「説教」ですね。はい。

徳武 必ず最初でした。

――なぜ最初だったのですか。

徳武 分かりませんが、生意気に見えたんじゃないですか。早稲田中では・・・

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