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レジェンドを訪ねる 昭和世代の言い残し

【レジェンドを訪ねる】木樽正明(ロッテ) インタビュー<1> 銚子商高3年夏に甲子園準V「千葉県庁から銚子までパレードが続くほど、地元は熱狂しました」

 

昭和世代のレジェンドの皆さんに、とにかく昔話を聞かせてもらおうという自由なシリーズ連載。昭和40年代のオリオンズのエース・木樽正明さん編のスタートです。初回は、甲子園で準優勝した銚子商高時代のお話を伺いました。
文=落合修一

木樽正明


骨折したまま甲子園に出場した高1の夏


──木樽さんはもともと銚子のご出身なんですか。

木樽 はい。利根川の河口のほう。文字どおり「川口町」というところの生まれです。漁師町でしたがウチは漁師ではなく、水産加工業。漁師さんが獲ってきた魚を加工して商売にしていました。まあ、銚子の中でも荒っぽい町でしたね。そのときの自分はそういう意識はなく、それが普通だと思っていましたけどね。

──野球はいつから始めたのですか。

木樽 銚子は野球しかない土地柄だったんです。よちよち歩きのころから近所の子どもたちが広場で野球をして遊んでいるのにくっついて、バット拾いを手伝ったりしていました。そうやって野球を始め、中学生のときに(銚子一中で)市内大会で優勝したりすると、もう一つ上でやりたいという気持ちが芽生えますよね。自分で言うのもなんですが、銚子の中では知られるようになりました。僕が中2までの銚子一中の監督が斉藤一之さん。指導力が評価され、地元の名門・銚子商高の監督になってほしいという声が周囲から上がりました。斉藤さんは中学校の教員免許しか持っていなかったのが、通信教育で高校の教員免許を取得し、銚子商高の監督になったのが僕が中3のとき。だから僕は斉藤監督から1年遅れで銚子一中から銚子商高に進んだことになります。

──地元の名門・銚子商高に入学したら、実際はどうでしたか。

木樽 当時は「愛のムチ」が当たり前で、先輩のしごきは相当なものでした。それは伝え聞いていたので覚悟はしていましたが、そのとおりの状況でした。僕が入学したときは旧校舎で、場所は現在の「ホテルルートイン銚子駅西」のところだったんです。校舎もグラウンドも。

──銚子駅から近かったんですね。

木樽 その代わり、狭いんですよ。野球部が真ん中で使って、ラグビー部、陸上部、バレーボール部も併用していました。ほかの生徒に硬球が当たらないように練習中に見張っているのが下級生の役割でしたね。

──高校が今の場所に移転したのはいつだったのですか。

木樽 僕が2年(1964年)の9月でした。最初は野球のグラウンドが未完成で・・・

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