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レジェンドを訪ねる 昭和世代の言い残し

【レジェンドを訪ねる】屋鋪要(大洋ほか)インタビュー<2> ベイスターズから突然の“解雇”「プロ野球選手である以上、そういうことは起きます」

 

昭和世代のレジェンドの皆さんに、とにかく昔話を聞かせてもらおうという自由なシリーズ連載。横浜大洋で3年連続盗塁王だった屋鋪要さんの2回目は、「スーパーカートリオ」での全盛期から横浜退団までのお話です。
文=落合修一

屋鋪要


三者三様だったスーパーカートリオ


──前回からの続きです。プロ2年目(1979年)の夏にスイッチヒッターに挑戦したそうですが、モノになったなと思えたのは?

屋鋪 プロ4年目あたりですね。

──その4年目である81年には、屋鋪さんより1歳上の高木豊さんが中大から入団しました。最初はどう思いましたか。

屋鋪 素晴らしいセンスを持っている人だなと思いました。具体的には、ボールにバットを当てるセンス、ストライクとボールを見極めるセンス。この人には勝てないなと。

──ライバルという見方をしていたのではなく?

屋鋪 完全に負けていました。あの方はほぼ毎年、打率3割ですから。唯一勝てた部分は盗塁でした。

──高木豊さんは内野、屋鋪さんは外野だったので、守備位置がかぶらなかったですね。

屋鋪 (高木)豊さんとはよく食事に行きましたが、同じポジションだったら仲良くしていませんね。特に松原誠さんが一軍打撃コーチに就任して(82年)、豊さんと2人ですごく練習させてくれたんです。

──高木豊さん、加藤博一さんとの「スーパーカートリオ」の結成は、近藤貞雄監督が就任した85年。

屋鋪 その前から機動力を重視したチームではあったのですが、近藤さんが僕らのトリオに名前をつけてメディアに売り込んでくれました。当初は「スポーツカートリオ」だったのですが、メディアが「スーパーカートリオ」と呼ぶようになって定着しましたね。

──3人とも、よく走りましたね。85年は屋鋪さんが58、加藤さんは48、高木豊さんが42。

屋鋪 3人はタイプが違いました。盗塁は、勇気がないとできない。無鉄砲にスタートを切るのが豊さん。アウトになっても気にしないんです。確率的には低かったかもしれませんが(編注・85年の高木豊の盗塁死20はリーグ最多)、豊さんは度胸がありました。逆に加藤さんは・・・

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