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レジェンドを訪ねる 昭和世代の言い残し

【レジェンドを訪ねる】阿波野秀幸(近鉄ほか)インタビュー<4>先輩のために横浜まで足を運んだ新人・野茂英雄「筋を通す男です」

 

昭和世代のレジェンドの皆さんに、とにかく昔話を聞かせてもらおうという自由なシリーズ連載。近鉄、巨人、横浜で活躍した阿波野秀幸さん編の最終回は、1990年から現役引退までのお話です。
文=落合修一

阿波野秀幸


猛牛軍団が散逸した1995年前後


──前回からの続きです。1989年の阿波野さんは19勝8敗1セーブでリーグ優勝に貢献。しかし、翌90年から成績が下降線をたどります。

阿波野 90年は10勝(11敗1セーブ)したのですが、前年までなら凡打にしていたボールをファウルにされ、攻略されている感覚がありましたね。さらに、投手ライナーが膝に当たって練習できないまま試合で投げ、上半身に頼り過ぎてからは肘を痛めました。

──91年以降は阿波野さんの年度別成績を見ても寂しくなるのですが、肘の痛みとの戦いだったわけですね。

阿波野 今ならトミー・ジョン手術を受けたでしょうね。当時は村田兆治さん(ロッテ)の手術から復帰した経験を聞いて、僕は手術しないで治す道を選びました。入団して最初の3年で700イニング以上投げたツケというのは来るんだな、と。僕が野茂(野茂英雄)みたいにメジャーでも通用する体格なら乗り越えられたかもしれませんが、体が音を上げました。

──野茂投手は近鉄にドラフト1位で入団した1年目(90年)から投手タイトルを独占する大活躍でしたが、阿波野さんはどう見ていましたか。

阿波野 自分も、もっとちゃんとしなくちゃなと。

──エースの座を奪われた悔しさみたいな感情は。

阿波野 そういうふうに周囲に捉えられても構わなかったです。ただ、西武の黄金時代に優勝するにはエースが1人では難しい。野茂が入団したときは僕と同時に活躍すればいいと思っていました。8球団から指名された野茂は、言葉数の少ない男。チームの中で誤解されないように、ケアしていたんですよ。キャンプでは一緒にお寺に座禅を組みにも行きました。そうしているうちに僕自身が勝てなくなり、自分へのもどかしさを感じるようになりました。

──ルーキー時代の野茂さんはどういう人でしたか。

阿波野 多くを語らない人です。しかし、キャンプ前の1月くらいに対談の仕事があったとき、近鉄も野茂も大阪じゃないですか。僕は横浜に帰省していたので大阪に行こうとしたら、野茂は「先輩の阿波野さんが移動するのはおかしい」と横浜まで来てくれたんですよ。そういう筋はしっかりと通す男だなと思いました。

──さて、95年に野茂さんはドジャースに移籍し、阿波野さんは巨人へトレードされます。阿波野さんも当時の近鉄の鈴木啓示監督と確執があったのですか。

阿波野 活躍できない選手の起用は当然減るのですが、自分では行けると思って一軍に合流しても試合に出してもらえないで二軍に戻されたりすると、気持ちがチームのためではなく・・・

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