昭和世代のレジェンドの皆さんに、とにかく昔話を聞かせてもらおうという自由なシリーズ連載。中日、西武、阪神で活躍した田尾安志さんの2回目は、選手としての絶頂期を迎えた中日時代のお話です。 文=落合修一 田尾安志
首位打者はどうでもいい。それより残念なこと
──今回は1980年代前半の中日ドラゴンズのお話を。田尾さんは一番打者に定着しましたが、
広島の
高橋慶彦さん、
巨人の
松本匡史さんなど「盗塁」の全盛期でしたよね。
田尾 チャンスメーカーとして育てられて、自分自身の気持ちもそうなっていきましたが、僕は足が遅かった。中日の契約更改では、悪い点ばかり言われるんですよ。一度、今年は盗塁がゼロだったと言われたときがあって、「よし、分かった」と次の年(80年)は16盗塁しました。やろうと思えばできるな、と。
──でもチームカラーと言いますか、当時のドラゴンズは長打を打つ打者が並んでいました。
田尾 そう。ナゴヤ球場も広くなかったから、盗塁でアウトになるよりも動かないでホームランを待っていたほうが良かったんですよ。
──16盗塁した80年の田尾さんは、打率.299。数字上のたった1厘の差とは言え、この1厘は惜しかったんじゃないですか。
田尾 その年は僕の弟が病気で亡くなったんです。シーズン残り2試合となったところで親戚から「危篤状態になっているの知ってる?」と連絡が来て、驚いて親に電話したら「初の3割がかかっているから、知らせなかった」と。「そんなのはどうでもいい。いつでも打てるから」と、田舎に帰らせてもらいました。
──翌81年は打率.303で初の3割。そこから4年連続で打率3割でした。
田尾 そのころくらいになると自信がついて、3割は打てるという気持ちでやっていましたね。
──何百回も聞かれているでしょうが、82年のシーズン最終戦の話を教えてください。中日は巨人と優勝を、田尾さんは大洋の
長崎啓二さんと首位打者を争い、巨人が先に全日程を終え、中日が最後の大洋戦(10月18日=横浜)に勝てば優勝。一方の首位打者争いは長崎さんが1厘差でリードしていました。
田尾 僕は、個人タイトルを追いかけることにこだわりはなかったんですよね。
──1安打すれば逆転首位打者だった田尾さんは5打席連続敬遠で歩かされ、首位打者を逃しましたがチームは8対0で大洋に勝って優勝。
田尾 首位打者を獲れなかったことよりも、「優勝争い」と「首位打者争い」がどちらもかかった特別な試合のはずだったのに・・・
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