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レジェンドを訪ねる 昭和世代の言い残し

上田二朗(阪神ほか)インタビュー<1>新興勢力の東海大に進学、“勝てるアンダースロー”に「杉浦忠さんがモデルです」

 

昭和世代のレジェンドの皆さんに、とにかく昔話を聞かせてもらおうという自由なシリーズ連載。今回からは主に1970年代の阪神の先発投手として活躍した上田二朗さんです。まずはアンダースローの礎を築いた南部高、東海大時代のお話から──。
文=落合修一

上田二朗


センバツ準優勝校から完投勝利の大金星


──いつからアンダースローだったのですか。

上田 和歌山県田辺市で生まれ、田辺第三小、田辺市立明洋中時代はオーバースローの投手でした。球は速かったのですがもう1人投手がいて、私はエースではなかったです。

──高校は南部(みなべ)高へ進学。

上田 甲子園にあこがれました。南部高は地元の強豪で、センバツ出場が決まっていたんですよ。入学が決まった1年春に甲子園のスタンドへ応援に行きました。今度は自分もこのグラウンドに立つぞと思いながら。

──高校生活はどうでしたか。

上田 それが、投手として入ったのですが1年春にスライディングの練習で右足甲を骨折。それが治ったら1年冬に脊髄に細菌が入る髄膜炎という病気になり、野球ができなくなるかもしれないと思いながら、治るまで何カ月も静養していました。復帰は2年の夏過ぎでしたよ。

──そうだったのですか。いきなり最上級生みたいなものですね。

上田 そこでアンダースローに転向しないかと当時の山崎繁雄監督に言われたのです。山崎監督はのちに南部町(現在は南部川村と合併してみなべ町)の町長になったのですが下から投げろと言うだけで、技術的なことは教えてくれない(笑)。自分なりに投げていたら筋肉の使い方がそれまでと違うので、脇腹に激痛を感じる状態になりました。それでも我慢して投げたら・・・

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