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レジェンドを訪ねる 昭和世代の言い残し

今井雄太郎(阪急ほか)インタビュー<1>1978年8月31日のロッテ戦(宮城)で完全試合「試合前から何かやりそうな予感があった」

 

昭和世代のレジェンドの皆さんに、とにかく昔話を聞かせてもらおうという自由なシリーズ連載。今回から元阪急ほかの今井雄太郎さんです。まずは社会人から入団し、プロ8年目のブレークまでの長い「雌伏のとき」の時代のお話をお聞きしました。
文=落合修一

今井雄太郎


ドラフト2位で阪急に入団も「これは無理だ」


──新潟県のお生まれなんですよね。

今井 長岡市の出身です。僕らの時代は遊ぶと言ったら野球しかないわけですよ。昔は車も少なかったものだから仲間同士、道端で野球をするのが日課のようなものでした。ちゃんとしたチームに入ったのは小6のとき。小学校のチームです。中学校では野球部に入り、途中までは捕手だったのですが投手が肩を壊し、お前が投げろとなったのです。

──そこで頭角を現したわけですか。

今井 いやあ、そこまででもないですが、まあ、周囲よりはボールが速かったかもしれないですね。でも、高校に進むときは誘われたわけではなかったです。

──私立の中越高校に入学。

今井 新潟の中では強豪です。甲子園に行きたいなとレベルの高いところを目指したんですよね。入ってしまうと根性、根性、水は飲むなという世界ですよ。しかも、雪国でしょう。今みたいに室内練習場もなかったものですから冬場は校舎の中で廊下を走ったり、階段を上ったり。練習がつらくて、つらくて。上下関係も厳しい。それでも続けられたのは野球が好きだったんでしょうね。

──エースになったのはいつですか。

今井 2年の秋の新チームからです。2年夏もそうだったのですが、自分がエースだった3年夏(1967年)、新潟代表になったけど富山代表(富山商高)との北越大会で敗れ、甲子園に出られなかったんですよ。

──当時は今みたいな「1県1代表」ではなかったのですね。

今井 そうなんです。新潟県だけで野球をしていたときは上に行けたのですが・・・

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