昭和世代のレジェンドの皆さんに、とにかく昔話を聞かせてもらおうという自由なシリーズ連載。元南海ほかの山内和宏さんの2回目は、プロ入りした当時の南海ホークスのお話を中心にうかがいました。 文=落合修一 山内和宏
新人自主トレ初日、寝坊で欠席したが……
──1980年秋のドラフトで南海ホークス(現
ソフトバンク)から1位で指名されました。
山内 あの年は
原辰徳(
巨人)、
石毛宏典さん(
西武)、
愛甲猛(
ロッテ)など豊作のドラフトで、1位以外にも
高木豊(大洋)、
大石大二郎(近鉄)などがいました。
──そんな中、南海は最初から山内さんに入札。
山内 南海は80年の日本シリーズで敗れたパ・リーグの最下位だったので、ドラフトが始まって最初に名前が呼ばれたのです。「あと11球団、どこか名前を呼んでくれないかな」と思ったのですが、原と石毛さんは複数球団の重複でしたし、僕の名前は二度と呼ばれず、南海の単独1位となりました。
──
前回のお話だと、在京球団志望だったとか。南海はそんなに行きたいチームではなかったのですね。
山内 そうですね。大阪という都市は社会人の日本選手権で1回行ったくらいでなじみがなかったですし、南海というチームへの知識もなく、1年前に有名なドカベン(
香川伸行)が入団したことと、最近は弱いチームであること。それしか知りませんでした。
野村克也さんのイメージもありましたけど、もう退団して何年もたっていましたからね。
──それでも拒否せず、南海に入団。
山内 もともとプロでやれるとは思っていないところに1位の評価をしていただいて、会社(リッカー)もプロに行っていいと言ってくれました。僕は野球ができるならどこでもよかったんです。
──では、実際に南海に入団して、どうでしたか。
山内 最初にやらかしました。新人として(大阪・中百舌鳥の合宿所に)入寮したのですが、翌日の合同自主トレの朝の体操に寝坊して・・・
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