昭和世代のレジェンドの皆さんに、とにかく昔話を聞かせてもらおうという自由なシリーズ連載。巨人、近鉄で渋い左打者として活躍した淡口憲治さんの最終回は、近鉄移籍後のお話をうかがいました。 文=落合修一 淡口憲治
「10.19」の9回に二塁打で出塁
──1986年シーズンに
有田修三捕手との交換トレードで淡口さんが巨人から近鉄に移籍したのは、トレードを拒否して引退した
定岡正二さんの代わりだったんですよね。
淡口 トレードが成立しないのはよくあることで、定岡君の選択は自由です。でも、トレードの話はそれでなくなりませんでした。巨人はどうしても有田さんを必要として、近鉄は「定岡君じゃないなら左打者を欲しい」と要求したらしいんですね。この話を僕が最初に巨人から聞いたときに「定岡君の身代わりですか?」と尋ねたら「違う。向こうは左打者を欲しいと言っているんだ」と言われたのですが、明らかに身代わりじゃないですか(笑)。そのとき、(兵庫県在住の)お袋は病気で先がなかったんですね。僕は(三田学園)高校を出てからずっと東京だったから、ここで実家に戻って親孝行をしようと思ったので、近鉄に移籍することにしました。
──定岡さんのようにトレード拒否も考えましたか。
淡口 可能性はありました。古い考えですが、野球選手は一つの球団で終わるほうがいいと。その時点で15年やっていましたから。
──結局、近鉄に移籍。
淡口 今と違って巨人やセ・リーグとの格差が大きかった時代です。「巨人はいいですね」とか「巨人の
原辰徳選手のファンなんです」とか言われ、近鉄の選手がコンプレックスを持っているのを感じました。「巨人ではどうだったんですか」と質問されることが多く、僕は言葉だけではなく態度で示したかったので普段の練習から気が抜けなかったです。
──86年当時のパ・リーグはどういう状況でしたか。
淡口 西武ライオンズが強かった。西武球場(現ベルーナ)に行っても、勝てる気がしなかったですね。近鉄も打線が良くて、そこそこ強かったんですが西武はそれ以上でした。
──88年シーズン中に
リチャード・デービス選手が大麻で逮捕されましたが、その前からやっていそうな様子はありましたか。
淡口 全然分からなかったです。ただ・・・
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