昭和生まれのレジェンドの皆さんに、とにかく昔話を聞かせてもらおうという自由なシリーズ連載。1982年のセ・リーグMVP捕手・中尾孝義さん(元中日ほか)の2回目は、高校を出てからプロ入りするまでのお話です。 文=落合修一 
中尾孝義
慶大受験のために
──
前回からの続きです。滝川高3年夏(1973年)の兵庫大会の決勝で敗れ、次の進路はどのように。
中尾 その1年前、2年夏の大会が終わり、3年の主将だった先輩が慶大のセレクションを受けに行くときに高校の吉本宗泰監督から言われ、僕も一緒に行ったのです。そこで肩を見せて、打撃でも本塁打を連発。当時の慶大の大戸洋儀監督から「来年も絶対セレクションに来いよ。勉強もしておけよ」と言われました。そして、僕が3年の夏前。慶大4年だった
山下大輔さん(のち大洋)と捕手の木原弘人さん(のち松下電器)が練習を指導しに高校に来たのです。すごくカッコ良かったんですよ。
──山下さんは「プリンス」と呼ばれていたころですよ。
中尾 慶大に入りたい思いが、ますます強くなりました。で、夏の大会が終わって、慶大のマネジャーから連絡があったのです。慶大野球部を志望している高3で集まって、一緒に受験勉強をしないかと。メンバーは作新学院高の
江川卓(のち
巨人)、甲子園準優勝の静岡高から
植松精一(のち
阪神)、捕手の水野彰夫、三塁手の永島滋之。大府高の遊撃手・森川誠。丸子実高の捕手の
堀場秀孝(のち
広島ほか)。僕を含めたこの7人が、地方在住だったのです。甲子園が終わった8月の終わりから、10月いっぱいまで続いたのかな。金曜に学校が終わると、新幹線で東京に行きました。7人で大部屋に寝泊まりしながら土曜、日曜と勉強です。
──東京のどこに集まったのですか。
中尾 慶大の大戸監督は旭化成の社員だったのですが、その研修施設が代々木八幡にありました。北里大の川澄哲夫教授(慶大OB)が勉強を教えてくれました。江川は栃木だからそんなに遠くない。僕は兵庫だったので一番遠かったんですよ。
──そこで仲良くなったのですね。
中尾 そう。しかし、慶大に受かったのは静岡高の永島だけ。江川、植松、水野は法大に進路変更し、僕と森川と堀場は浪人したんです。
──中尾さんは浪人してでも慶大志望だったと。
中尾 そうなんです。上京して、代々木ゼミナールに入りました。地方出身者向けの寮がいくつかあったのですが・・・
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