昭和生まれのレジェンドの皆さんに、とにかく昔話を聞かせてもらおうという自由なシリーズ連載。ロッテ一筋17年、“ミスター・マリーンズ”こと初芝清さんの4回目は、1995〜98年のお話を伺いました 文=落合修一 
初芝清
シーズン最終打席で狙った本塁打
──1995年の話に行きましょう。
広岡達朗GMとボビー・バレンタイン監督が就任。ロッテは変わろうとしていましたか。
初芝 僕らはアマチュア時代から日本で野球をしているので、練習をすればするほどいい、という感覚があったのです。しかし、ボビーは「なんでそんなに練習するんですか。そこまですると疲れます」。調子が悪いときこそ練習したいのが日本人なのに、「今結果が出ないのは形が悪いからで、その形を体に染み込ませてもしょうがない」というのがボビーの考え方だったんですよ。ただ、広岡さんはボビーの意向に反して選手に練習させたがるところがありました。そのへんの対立は、僕ら選手は何とも言えないですよね。上から言われたことをするしかない。異なる指示に迷ったこともありました。
──あの年はシーズン途中から勝つことが多くなり、最終的に2位。何か浮上のきっかけがあったのですか。
初芝 その前年まではシーズン中に疲れが出たのですが、あの年は感じなかったです。常にいいコンディションで試合に入っていけました。例えば移動日にしても「各自で移動しなさい」と変わり、それが当時は画期的でした。以前はチーム全員でスーツを着て団体行動するのが当たり前だったのが、飛行機は別ですけど、新幹線は自分の好きな時間に乗りなさいと、その日の最終列車の切符を渡されるようになったんですよ。各自が駅の窓口に行って、乗りたい列車に変えてもらう。だから、遠征先から帰宅するだけの移動日なんか、みんな始発くらいの早い時間の新幹線に乗っていました。ナイターの翌日でもね。早く寝るから前夜に深酒もしないし、そういう積み重ねがうまく軌道に乗ったというのがありましたよね。
──95年は打率.301、25本塁打、80打点で打点王を獲得。そういう環境の変化が個人成績にも好影響を与えたのですか。
初芝 あったと思いますね。常にリフレッシュじゃないですけど、いい状態で試合に臨めていました。
──シーズン終盤には
田中幸雄選手(
日本ハム)、
イチロー選手(
オリックス)との打点王争いがありました。
初芝 シーズン最終戦(9月28日、
西武戦=西武、現ベルーナ)はマリーンズが一番早かったんですよ。試合前の時点の打点は僕と幸雄ちゃんが79、イチローが78でした。日本ハムとオリックスはその日を含めて3試合残っていたので、僕は突き放しておきたかったのですが、最初の3打席で凡退しました。試合展開からして、残りは1打席。ボビーに呼ばれて、「どうする? 代わる?」と尋ねられました。というのも・・・
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