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あの日、あのとき、あの場所で 球界の記念日にタイムスリップ

<1962年6月2日>下町を照らす「光の球場」が華々しくオープン! 名物オーナーの悲願達成も……

 

当日の開場式における大毎ナイン。空が明るいのでまだナイターの試合よりかなり前の写真だろう。写真右端の背番号8は主砲・山内一弘


シーズン途中の開場式典にパ・リーグ6球団が集結


 1962年、東京は下町・南千住に新たな野球場が誕生した。東京スタジアム(通称・東京球場)である。建設を主導したのは映画会社大映の社長にして大毎オリオンズのオーナーである永田雅一。セ・リーグ、特に巨人に強い対抗意識を持つ永田にとって、後楽園球場に負けない立派な自前球場を作ることは悲願だった。

 そのため、設備は最新鋭だった。総工費用は30億円(永田の私財も投じられた)。サンフランシスコ・ジャイアンツの本拠地、キャンドルスティック・パークを参考に設計された東京球場は、コンクリート打ちっぱなしのモダンな外観で、客席への移動手段としてスロープが採用された(今でいうバリアフリーである)。赤・青・黄色に塗り分けられたシートはゆったりとしたスペースが取られ、日本初のゴンドラ席も置かれた。外野にラバーフェンスが初めて設置されたのもこの球場である(66年。本拠地球場の設置義務化は77年から)。ロッカー室や食堂も豪華で選手を喜ばせた。何よりも目を引いたのが、当時としては高水準の1300ルクスの外野照明であった。ナイターとなると、当時は周囲に低層の建物しかなかったことから、まるで球場が浮かび上がっているかのような存在感を示した。そのため人々は、このスタジアムを「光の球場」と呼んだ。

 その東京球場がオープンしたのが62年の6月2日である。パ・リーグ初代総裁を務め、抜群の実行力とその大言壮語ぶり(永田ラッパと呼ばれた)から大きな存在感を示していた永田の威光もあってか・・・

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