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<1963年10月17日>最終打席で決めた! ノムさんが当時の日本記録、52号ホームラン

 

シーズン最終戦の最後となるであろう打席でスリーボールナッシングとされながらも、4球目を振り抜いて新記録[当時]のシーズン52号を打った野村克也[南海]


ガソリンをまいて「幻」を阻止した1本も


 打席に立つ南海の四番・野村克也にとって、最後のチャンスだった。1963年10月17日。その日、南海にとってのシーズン最終戦が行われた。場所は大阪球場。相手は近鉄である。試合は終盤の7回裏、3対0で南海がリードしていた。状況を考えれば、643度目のこれが野村にとって最後の打席になる。ここまで野村が放った本塁打は、50年の小鶴誠(松竹)に並ぶ日本タイ記録の51本。この打席に新記録達成がかかっていたのだ。

 しかしマウンドの山本重政に勝負をするつもりはまったくなかった。新記録は打ったほうには名誉でも、打たれたほうにはこれ以上ない屈辱である。外角低めに3球直球を続け、カウントはスリーボールになった。観客席は騒然となった。新記録は夢と終わるのか。だが、野村は冷静だった。(恐らく次も外角のストレートだろう。結果はともかくとしてフルスイングしよう……)

 そして山本が投じた4球目に対し、野村は本塁ベース寄りに思い切り左足を踏み込んだ──。

 2020年2月に84歳で亡くなった野村は、後年の監督のイメージが強い。「ID野球」を駆使しチームを勝利に導く一方、ユーモラスなボヤキはファンを楽しませた。だがそもそも野村は史上屈指のスラッガーだった。8年連続を含め9度本塁打王のタイトルを獲得。通算本塁打は歴代2位の657本を記録している。

 その野村も、峰山高時代はホームランが1本だけという無名の選手だった。当然獲得に乗り出す球団はない。野村は53年に南海のテストを受けた。合格こそしたが、当初野村はまったく期待されない存在だった。頑丈そうだし、「壁」(ブルペン捕手)で使えばいい。それが鶴岡(山本一人)監督の評価だった。

 その逆境を野村は猛烈な努力で克服する・・・

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