週刊ベースボールONLINE

あの日、あのとき、あの場所で 球界の記念日にタイムスリップ

<1970年1月5日>世代No.1だったかもしれないスラッガーを何者かが襲撃。プロとしての致命傷を負う

 

1969年の秋のドラフトで大洋に1位指名された荒川堯は70年1月に何者かに襲撃されたが同年10月に大洋と契約、大洋のユニフォームで秋季練習に参加した


巨人とアトムズ以外、ドラフト指名は拒否


 267万8792人。これは1947年に誕生した新生児の数である(2022年の新生児数は77万747人)。現代に比べてはるかに同学年が多かった彼らは、常に激しい競争にさらされた。野球の世界でも同様で、その分1947年生まれのプロ野球選手には実績者が数多い。衣笠祥雄(広島)や鈴木啓示(近鉄)、福本豊(阪急)など7人が200勝ないし2000安打を達成している。それだけレベルが高い世代だった。

 47年度生まれが大学に進学し、ドラフトで指名を受けたのは69年11月20日。谷沢健一(早大。中日ドラフト1位)や上田二朗(東海大。阪神同1位)、佐藤道郎(日大。南海同1位)といったのちの名選手たちが、このドラフトでプロの世界に飛び込んだ。そんな逸材ぞろいの中で、ひと際注目されていた大学生がいた。早大の内野手・荒川堯(たかし)である。大学通算成績は打率.336、本塁打19本(当時歴代2位)。のちに2000安打を達成した谷沢との強打者コンビは「早稲田のON砲」とうたわれ、長打力では谷沢を上回ると評された。当然のように荒川はドラフト1位で指名された。しかしそれが荒川の志望球団ではなかったことが、のちの悲劇を生むことになる──。

 荒川は「出沢堯」として長野県に生まれた。子どものころからスポーツ万能で成績も優秀。だが何よりも得意なのは4歳から始めた野球だった。中学時代には投手として県大会で準優勝。そんな堯の才能に目を付けたのが、当時巨人の打撃コーチだった荒川博である。63年、荒川博の勧めで堯は東京の早稲田実業高等部に入学する。翌年には荒川博と養子縁組を結び・・・

この続きはプレミアムサービス
登録でご覧になれます。

まずは体験!登録後7日間無料

登録すると、2万本以上のすべての特集・インタビュー・コラムが読み放題となります。

あの日、あのとき、あの場所で

あの日、あのとき、あの場所で

球界の記念日にタイムスリップ

関連情報

新着 野球コラム

アクセス数ランキング

注目数ランキング