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<1954年2月4日>新球団・高橋ユニオンズがパ・リーグに誕生も、前途多難の旅立ち

 

1954年の高橋ユニオンズ創立時点の写真から。前列左端が浜崎真二監督で、その右が高橋龍太郎オーナー。後列右端にはスタルヒン投手の姿も見える


球団名の「高橋」は「日本のビール王」


 1953年12月、パ・リーグの初代総裁に就任した永田雅一(大映スターズオーナー)には、あるアイデアがあった。当時のパは7球団。奇数とあって日程編成上どうしても余る球団が出てくる。その不都合さを解消するため、新たに球団をつくり8球団制にしようと目論んだのだ。

 新球団創設のため永田が白羽の矢を立てたのは、かつて大日本麦酒の社長を務め、参議院議員や通産大臣を歴任した財界の長老、高橋龍太郎だった。78歳とあってすでに実業の第一線からは退いていたが、戦前はイーグルスの経営にも関わった高橋龍太郎は大の野球好きだった。永田は「日本のビール王」を相手に得意の弁舌でまくし立てた。リーグとしても利益を得るのだからあらゆる援助を惜しまない、各球団から一流の選手を提供する、と。

 永田の説得に「自分のような老骨でも、プロ野球隆盛の一助に役立つなら」と高橋龍太郎は球団創設を決意する。かくして新球団・高橋ユニオンズが誕生した。その名のとおり、親会社を持たない独立採算制の球団だった。54年2月4日、プロ野球実行委員会の承認を得て、ユニオンズは正式にパ・リーグに加盟する。本拠地は出来たばかりの川崎球場だった。

 だがユニオンズの前途は多難だった。監督の浜崎真二は、選手の顔ぶれを見て頭を抱えた。メンバーは全盛期を過ぎたベテランか、酒好きで監督が手を焼いている者ばかり。一流選手を提供するという永田の約束は反故にされた格好だった。おまけに各球団は、戦力外選手たちの見返りとしてトレードマネーまで要求してきた。「惜しまない」とされた援助は口先だけだった。

 開幕前の予想は最下位が多数を占めた。実際、ユニオンズは・・・

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