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あの日、あのとき、あの場所で 球界の記念日にタイムスリップ

<1979年6月9日>パの打撃ランキングを独走する移籍1年目の「赤鬼」が死球を受け、長期離脱した日

 

右あごにボールを直撃されたマニエルは、激痛と怒りで顔をゆがめながらも八木沢のいるマウンドへ数歩詰め寄りかけたが……


人の心を知る西本幸雄監督


 ヤクルトの外野手、チャーリー・マニエルにとって信じられない事態が起きたのは、1978年のオフだった。近鉄へのトレードを通告されたのである。

 身長193cm、体重91kgの巨体。試合となれば激しい気性をむき出しにし、興奮で顔面を紅潮させるさまから「赤鬼」と呼ばれたマニエルは、その異名にふさわしく驚異的な打力を誇った。78年に球団創設以来初のリーグ優勝と日本一を果たしたヤクルトにあって、打率.312、39本塁打、103打点を記録している。打線の主軸であることは間違いなかったが、一方で守備と走塁に難があった。広岡達朗監督にとって、それは看過できない欠点であった。

 しかしこの移籍は、マニエルにとって吉と出た。パ・リーグには指名打者(DH)制度があるからだ。これによりマニエルは苦手な守備から解放され、打撃に専念することができた。だが何よりも、そこで出会った指揮官の存在が大きかった。西本幸雄である。野球に関しては冷酷なほどクールで、めったに選手を褒めずに問題点だけを指摘した広岡に対し、熱血指導で知られた西本は、怠慢なプレーこそ容赦はしなかったが、ホームランを打てば「ナイスバッティング!」と笑顔で手を差し出した。

 人としての温かみを感じたマニエルは、還暦間近の名将を慕った。通訳なしで1時間半ほど話し込んだこともあった。陽気に『およげ! たいやきくん』を歌うマニエルに合わせ、西本はバットをウクレレのように構えて弾くふりをしたことすらあったという。マニエルは語っている。

「ボスは大リーグでも監督のできる人だ。プレーヤーの心を知っている。プレーヤーが力を出せるように大事に考えてくれる」

 そして・・・

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