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あの日、あのとき、あの場所で 球界の記念日にタイムスリップ

<1968年8月24、25日>かつての豪快な「野武士」がアトムズで最後の輝き。2夜連続の代打サヨナラ本塁打

 

肘の故障もあり若いころのような常時出場は難しくなっていた豊田だったが、ここ一番の代打として抜群の勝負強さを発揮した


中西太と対立し、国鉄へトレード


 豊田泰光が水戸商高から西鉄ライオンズ(現西武)に入団したのは、1953年のことである。1年目からショートのレギュラーを任された。守備は上手(うま)くなかった。失策数はリーグ最多の45。エラーをするたびに、気性の荒い福岡のファンは罵声を浴びせた。並の新人であれば、委縮してプレーもままならなかっただろう。しかし、この18歳の「水戸っぽ」は違った。それなら打てばいいのだろうとホームランを量産。当時のルーキー記録である27本塁打を放って新人王に輝いた。

 名将・三原脩監督に率いられた当時の西鉄には個性派の実力者がそろい、「野武士軍団」と称された。その中にあって、豊田は勝負強いバッティングで中西太大下弘と並び抜群の存在感を示した。56年には打率.325で首位打者を獲得している。同年から西鉄は3年連続で巨人相手の日本シリーズに臨み、そのすべてに勝利した。57年に1引き分けを挟んでの4連勝を果たした際、優秀選手賞を受賞する働きを見せた豊田は、記者の前でこう言って大笑した。

「相手が弱過ぎたから面白くなかったね。アメリカのブレーブス(この年のワールド・シリーズを制覇)とやってみたかった。いや、平和台球場で2連勝したときは、こいつはもうストレートだと俺は予言したね」

 今ならば百戦錬磨のベテランでも言わないようなセリフだが、豊田はまだ22歳である。中国は唐代の詩人である李賀は「長安に男児あり、二十にして心すでに朽ちたり」とわが身を嘆いたが、このとき絶頂期にあった豊田が隣にいたら、あるいは鼻で笑ったかもしれない。

 それから11年後の68年、豊田の姿はサンケイ(現ヤクルト)にあった。三原が去り、黄金時代が終焉(しゅうえん)した西鉄にあって奮闘を続けた豊田だったが・・・

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