
ボールが速くなく、コントロールと投球術で抑えていた安田は、技巧派ではあったが打者から逃げずに勝負した「本格派」でもあった
静かに始まった大記録への道のり
1973年7月17日、甲子園での
阪神戦。6回途中から登板した
ヤクルトのサウスポー・
安田猛は、8回裏にピンチを迎えた。一死二塁で右打席に立つのは、四番の
田淵幸一。スコアは1対1、試合は終盤とあって、次の1点は絶対に防がねばならなかった。
前年の安田と田淵の対戦成績は打率.292、本塁打3本。今季はここまで6打数1安打だったが、「左対右」という相性の悪さ、そして相手がトラの主砲であることを考えれば、無理に勝負する場面ではなかった。ベンチは安田に敬遠の指示を出す。2年目の左腕は粛々と従った。
安田は後続を断った。敬遠策は成功だったと言える。そして9回表にヤクルトは1点を勝ち越すと、安田はその裏を三者凡退に打ち取り、シーズン7勝目を挙げたのだった。
大記録とは大抵の場合、静かに始まるものだ。初回を3人で抑えたばかりの投手が、数時間後にノーヒットノーランを達成すると確信する人間はほとんどいないだろう。その日の安田についても同様だった。いや、大記録の「旅」が数時間どころか約1カ月半に及んだことを考えれば、それ以上の静かな出発だった。9回裏に安田は1つの四球も与えなかった。そのことの意味に人々が気付くのは、しばらく先のことである。
安田の身長は公称173cm。実際はそれ以下だったとされる。手足も短い。お世辞にもスマートとは言い難く、付いたあだ名は「ペンギン」だった。態度も飄々(ひょうひょう)としており、オフは酒屋でアルバイトをしていた、契約更改に子どもを連れてきたなど、ユー
モラスな逸話にも事欠かない。何よりも有名なのは・・・
この続きはプレミアムサービス
登録でご覧になれます。
まずは体験!登録後7日間無料
登録すると、2万本以上のすべての特集・インタビュー・コラムが読み放題となります。
登録済みの方はこちらからログイン