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あの日、あのとき、あの場所で 球界の記念日にタイムスリップ

<1978年9月23日>西本監督5年目の近鉄が悲願の初優勝に迫りながらも王者・阪急に阻まれた「藤井寺決戦」

 

8回表の投手交代の場面。左から捕手・梨田昌崇、西本監督、マウンドを降りる鈴木啓、二番手投手・柳田豊、三塁手・羽田耕一、遊撃手・石渡茂、一塁手・小川亨


鈴木啓示の人生にピークは2回


 通算317勝、近鉄史上最高のサウスポーである鈴木啓示は、全盛期を2度経験した男である。

 1度目は入団2年目の1967年から71年まで。この間、5年連続で20勝以上とリーグ最多奪三振を記録した。大きく振りかぶってから投じる高めの剛速球で、鈴木は打者をねじ伏せた。主戦場が狭い藤井寺球場や日生球場だったこともあり被本塁打は多かったが、鈴木にとってはそれも真っ向勝負を挑んだがゆえの「男の勲章」であった。

 思うように勝てなくなったのは72年からだった。この年、鈴木は14勝15敗。73年も11勝13敗に終わった。並の投手ならまずまずだが、20勝が当たり前だったエースにしては物足りない成績が続いた。それでも鈴木は、自分の投球美学を曲げるつもりはなかった。

 74年、万年Bクラスだった近鉄の監督に西本幸雄が就任した。前年まで指揮を執った阪急を5度のリーグ優勝に導いた白髪の名将である。熱血指導で鳴らした西本は、すでに実績十分の鈴木にも容赦なかった。

「20勝しても2ケタ負けるようではエースと言えん」、「直球一本槍(やり)ではなく、配球やコントロールを考えたらどうや」……。毎日のように直接苦言を呈した。

 なんや、このオッサン……。自尊心の強い鈴木は・・・

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