
日生球場での近鉄対阪急のダブルヘッダーが終了すると近鉄・西本幸雄監督の勇退セレモニーが行われ、やがて両チームの選手が感謝の思いを込めて西本を胴上げした
偶然にも最後は阪急戦
1981年10月4日。近鉄を率いる西本幸雄は、監督としての最後の日を迎えた。大毎(現
ロッテ)で1年、阪急(現
オリックス)で11年、そして近鉄で8年。計20年でリーグ優勝は8回。日本一こそ果たせなかったものの、情熱的な指導と飽くなき闘争心で一時代を築いた名将が、この日の阪急とのダブルヘッダーを最後に、ユニフォームを脱ぐのである。
「これも天のなせるわざか」。試合前、西本はそう言って笑った。対戦相手が、かつて指揮を取った阪急になったのは偶然だった。当時のパ・リーグは前後期制だったが、この日の2試合は前期の未消化分だったからである。日程どおりに進行していれば、あり得なかったラストゲーム。西本の言うとおり、それは野球の神様が61歳の監督に贈った、粋なプレゼントかもしれなかった。
阪急は総合2位、近鉄は総合6位と、順位はすでに確定していた。にもかかわらず、日生球場の客席は、第1戦の開始前から内外野とも埋め尽くされた。2万5000人もの観客が西本との別れを惜しみ、駆け付けたのである。
午後2時、第1試合が始まった。「プレーボール!」。それは西本が監督として聞く、2664回目の開始の合図であった。
60年に大毎監督に就任した西本は、1年目にしてリーグを制覇し、日本シリーズへと駒を進めた。しかし「魔術師」
三原脩率いる大洋の前に、大毎は1勝もできずに敗退した。その采配を巡り永田雅一オーナーと衝突した西本は、たった1年でチームを追われた。
阪急の監督になったのは・・・
この続きはプレミアムサービス
登録でご覧になれます。
まずは体験!登録後7日間無料
登録すると、2万本以上のすべての特集・インタビュー・コラムが読み放題となります。
登録済みの方はこちらからログイン