週刊ベースボールONLINE

よみがえる1990年代のプロ野球

【90年代回顧録】タイガースOBに聞く・藪恵壹「打線に大砲がいないので、得点を望めない中常に0点を狙う投球をするしか、仕方なかった」

 

1990年代のハイライトは92年の2位。それ以外はすべてBクラスに最下位が6度。まさに暗黒時代であった。一番の要因は、他球団に比べて力の落ちる猛虎打線だった。その打線をバックに94年のデビューからエースとして腕を振り続けたのが藪恵壹氏だった。

エースとして、そのシーズンの首位や巨人戦を中心に強力打線を相手に投げ続けた。虎打線との兼ね合いで常に9回0点を狙っていた


査定基準が1年目の成績


 もしかして、巨人に逆指名で入っていたなら150勝くらいはしたかもしれません(笑)。朝日生命の練習場はよみうりランドの近くでしたから、当時、巨人のスカウトがよく見に来てくれていました。私自身も巨人ファンでしたから(笑)。

 実際にお話をいただいたのは阪神、近鉄、オリックスです。しかし、私を大学時代からずっと追い掛けていただいた阪神の菊地(菊地敏幸)さんとの縁を一番に考えていましたので、決めました。阪神に行きたかったというよりは、スカウト菊地さんとの絆で入団を決めました。

 1年目、開幕した4月から好投をして、完投、完封をしていきました。当時は、中6日でも今のような、あがりはなかったですし、その間ブルペンに4回も入っていたんです。これだときついなあ、夏はバテるかもなあ、と思っていましたが案の定、疲れてしまって後半に勝てなくなって9勝止まり。2年目も同じ流れでしたが、長男が生まれるということも考慮してもらい、登録抹消に。そのときに体もリフレッシュされ、残り2試合に好投しました。しかし勝てなかった。2年連続で2ケタ勝利を逃したんです。一方で、この2試合で防御率が2.98になりました。

 でもまあ、このときから打線は打てなかった。大砲と言われる選手がいないんですから、ほかのチームよりも弱いのは必然です(笑)。それでも投げ続けましたね。1年目のシーズンは181回1/3投げたのですが、実はこの後、私の年俸査定は、1994年のイニング数が基準になってしまいました(笑)。

 普通はどう考えても、規定投球回数が査定の基準だと思うのですが、なぜか阪神の査定は、1年目の投球回が基準。何年も何度も交渉したのですが、無理でしたね(苦笑)。さらに言えば、新人のときの防御率や三振、勝敗もまた査定基準だった。これは本当にシビアでしたね。

 96年になり正式に藤田平さんが監督になったのですが、このときに阪神は立て直しを図りたかったはずです。しかし、新庄剛志の遅刻に対して、報道陣に分かるように正座をさせたり……そういう部分でミソを付けてしまった。実際はすごく温厚な方なのですよ。それが、やることが裏目に出たというか……もし藤田さんが数年やっていたらチームは少し変化したかもしれませんね。

 このころの私は、死球が多かったのですが、実は内角へのコントロールにあまり自信がなかったんです。それでも内角に行かないと打たれますから、それで死球も多かった、というわけです。

 藤田さんのあとは吉田義男さんが監督に。吉田さんには特に何も言われたことはないんです。このときのヘッドコーチの一枝(一枝修平)さんとはいろいろなことを話した記憶がありますね。吉田監督の時代も、大砲らしい大砲はいなかった。助っ人もなかなか阪神にフィットする選手が出てこなかった。この年は大物助っ人としてマイク・グリーンウェルがいましたが、5月には神のお告げで帰ってしまった(笑)。

 後日談ですが、私がメジャーに移籍したときに、レッドソックスへ遠征に行ったのですが、このときにグリーンウェルとチームメートだった、という話を関係者に言うと「誰?」と。「ああ、外野を守っていた」という反応。来日当時の触れ込みはミスター・レッドソックス。でも、実際はそうでなかった(笑)。当時はメジャーの情報はなかなか入ってきませんから、そういう大げさな触れ込みは結構あったのかもしれませんね。

途中から耳を栓でふさぐ


 そして98年オフ。吉田さんが辞めて、次は誰になるのかと思っていたら、野村(野村克也)さんに決まりました。ビックリしましたよ。その後は、どういう野球をされるのか、興味津々でしたね。

 このときの投手コーチが八木沢(八木沢荘六)さん。キャンプのときに「カーブはどう投げている?」と言われたので、握りを見せました。すると違う握りを教えていただいたのです。投げるときに、「常に親指がボールより下にあること」と言われました。その原理を理解できなかったのですが、ブルペンで投げている間に、徐々につかんできて、新しいカーブができました。

 それまでのドロンというような曲がりから、パワーカーブのようなストンと落ちていくカーブに生まれ変わりました。メジャーでもこのカーブは通用しましたよ。

 この99年、6勝16敗。首位の中日に8試合、野村監督の古巣に9試合と先発をしましたし、2000年には優勝した巨人に10試合。もうイヤになるほど、同じチームに。勘弁してほしかったのも事実。だからといって野村監督には言えないですからね(苦笑)。

 当時の野村監督のミーティングは、ボードに書いてノートをとらせました。もちろん勉強にはなりました。ただ負けたときにネチネチと毎回言われるので、私は途中から聞かなくなりましたね。とにかく負けるたびに言ってくるので。これは勘弁してほしかったですね、打線が打たないので、こちらは必死に打たれないように投げているんですから、そういう気持ちもありましたよ(笑)。

 これは90年代じゃないのですが、息子のカツノリ(00年)が来てから、起用法でひいきが目立った。正捕手の矢野(矢野燿大阪神監督)との実力差はあり過ぎるんです。それでも使うから、現場は必然的に……になりますよ。札幌の遠征で、勝てばノムさんの節目の勝利数になるときに、私が先発だったんです。松井(松井優典)ヘッドコーチが「カツノリでいくけどいいか」と聞いてきました。もちろん、了解しバッテリーを組み2対3で敗退。このとき3つも盗塁をされました。必死にクイックで投げても……。このときは野村監督には何も言われませんでしたね(笑)。

 ノムさんとの思い出は、これも90年代ではないのですが01年の終盤。神宮の室内練習場で投げていたら、ブルペンのほうへ入ってきました。このとき「星野にお前を預けるからな」といきなり言われたんです。「ああ、トレードか」と腹をくくっていたら……星野さんが監督になることに。そのころからそういう話ができていたのか、と思いますね。

 私は94年入団で、04年まで11年間、阪神にいました。その間、6人監督が代わりました。2年に1人変わっている(笑)。しかも90年代の6年間で4回の最下位で、4位タイと5位ですべてBクラスです。

 いかに新庄が活躍しようとも、やはりこの間、大砲がいなかったですし、育たなかった。それに助っ人に30本以上を打てる選手がいなかった。そうなると常に9回0点を狙う投球をするしか仕方なかったんです。ほかのチームには、どの球団にも大砲がいたわけですからね。私はそこと勝負ですが、相手の投手は大砲のいない阪神打線を相手に投げるわけです。プレッシャーの大きさが違うんですよね。

 まあ、暗黒時代のエースと言われましたが、こういう経験をした投手はあまりいないでしょうから、貴重な経験をしたとは思いますね。でも巨人で投げていたら……150勝以上はできたかなと思うことがありますよ、今でも(笑)。ただそこは菊地さんとの縁ですから、阪神に入団したことに後悔はないですね。

ルーキーイヤーから大活躍し、9勝を挙げ94年の新人王に輝いた。その後は開幕投手を2度務め、96年には先発30登板とまさに低迷期のエースとして活躍した


PROFILE
やぶ・けいいち●1968年9月28日生まれ。三重県出身。右投右打。和歌山・新宮高から東京経済大、朝日生命を経て94年ドラフト1位で阪神入団。1年目に9勝を挙げて新人王に。2005年にアスレチックス移籍後は05、08年とメジャーでプレー。10年途中に楽天に入団し、同年現役引退。11年から阪神コーチを務めた。NPB通算成績は279試合登板、84勝106敗0S2H1035奪三振、防御率3.58。

関連情報

新着 野球コラム

アクセス数ランキング

注目数ランキング