週刊ベースボールONLINE

よみがえる1990年代のプロ野球

【90年代回顧録】スワローズOBに聞く・池山隆寛「野村さんが来てからは、個人成績よりも勝つ喜びを覚えたんですよね」

 

人気と強さを両立し、4度のリーグ優勝、3度の日本一の栄冠を手にしたのが90年代のヤクルトだ。その中心にいたのが、遊撃手の池山隆寛である。強く明るいのがヤクルトの特徴で、それは野村克也監督の下で全員が“野球”を学んできたからだという。

1995年の日本シリーズでは、第3戦ではサヨナラ3ランを放って優秀選手賞を受賞している


「チームのために」


 90年代の思い出かあ……。ちょうど1990年に野村(野村克也)監督が就任しましたから、90年代のヤクルトと言えば、やっぱり野村さんでしょうね。第一印象というか、就任が決まったとき、新聞紙上で「タレントはいらない」って言ってたんですよ。だから、すごい監督が来るな、と。そのタレントっていうのは、「俺のことかな……」とね。まあ「オフのヤクルト」と異名がつくくらい、シーズンでは弱くても、オフのテレビ番組なんかには出まくって、12月にばかり活躍してたのでね(笑)。

 ただ、野村さんは就任発表後すぐに、倒れられたんですよね。病気になられて、監督に就任するのが決まっているのに、来るかどうか分からない、みたいな状態で。なので初めましてが秋のキャンプではなく、アリゾナ・ユマの春季キャンプだったんですよ。

 そうそう、最初に怒られたのは内藤(内藤尚行)でしたね。ゲームに入ってくるとみんな叱られるんだけど、怒られるというより教えられるっていう感じだったかな。まあ、内藤を叱った最初は「監督はワシや」っていうのを示したかったのかなと思いますね。そして、初日から名物のミーティングが始まりました。もちろん、今までも攻撃やバントシフトの確認ミーティングとかはありましたが、野球以外の話が毎晩。「人間としてどう生きるか」という内容ですね。要は、野球人生は短いし、引退してからどう生きるかっていうことを教育してもらいました。

 89年までの関根(関根潤三)監督のときは「楽しく野球をやりなさい」というようなチームだったのが、野村さんが来てから、勝つためにどうするかを考えるチームに変わっていきました。1年目の90年は5位でしたけど、2年目は3位、3年目の92年に優勝するわけですから。着々と、勝つための力をつけていった、という感じでした。

 もちろん僕らも、2年目にAクラス入りしたことで手応えをすごく感じたと思うし、それまでは投手と野手でバラバラだったのが、お互いをカバーし合いながら、チームとして戦っていく雰囲気ができていったんですよね。91年は古田(古田敦也)が首位打者を獲得したり、僕と広澤(広澤克実、当時は広澤克己)さんは、野村さんが来る前から毎年30本塁打くらい打ってタイトル争いをしたりしていたけど、野村さんが来てからは、個人成績よりも勝つ喜びを覚えたんですよね。もちろん自分が打てたらうれしいけど、自分が打って試合に勝てたら、なおさらうれしい。

 だから92年に優勝したときは、本当に格別の思いでした。自分だけじゃなく、周りのみんなが「うれしい!」って顔をしていて、自分が周りを幸せにした気がしてね。そういうのを身を持って体験したことで、「チームの勝利のために」っていう思いは、僕だけじゃなくみんなが強くしていったと思いますね。

 それは、今のヤクルトにも通ずる部分がありますよね。今年は高津(高津臣吾)監督の「絶対大丈夫」っていう“お守り”を信じて、チーム一丸で戦う姿勢は画面越しでも伝わってきましたから。だから僕も二軍監督として、「目の前の試合を一生懸命、全力疾走が伝わるようなプレーをしよう」と選手に話しました。いつの時代もですけど、緊迫した優勝争いとか、大きな舞台というのは、やはり心身ともに大きな成長につながるんですよ。僕らのときは優勝イコール日本シリーズ進出だったけれど、短期決戦での負けられない戦いが選手を成長させるっていうのは、僕自身、現役時代に実感しましたから。

野村監督の遺産


 僕にとって初めての日本シリーズは92年だったわけですが、それまで日本シリーズのイメージというのは「ゲスト解説で行く場所」(笑)。それまで、僕はいろんな場所で清原(清原和博西武)と話す機会があったんですが、当時の西武は黄金時代。毎年のように日本シリーズに出ていた一方で、ヤクルトは弱小チームでした。なので、「ようやく清原と対戦できるな」と。それに清原が「池山さんタイプだったら、日本シリーズで絶対活躍するわ」と言ってくれてたので、楽しみな気持ちがありました。広澤さんは怖気づいていたそうですが、僕は比較的すんなり試合に入れたし、怖がる気持ちはまったくなかったかな。とはいえ、負けることは考えてなかったけど、勝てるとも思ってなかった(笑)。

 この92年の日本シリーズは3勝4敗。3勝3敗で迎えた最終戦の一死満塁の場面で、三塁走者だった広澤さんが、ホームでアウトになったんです。セカンドゴロをさばいた辻(辻発彦)さんのファインプレーだったんだけど、大事な得点機にホームで憤死だから、93年の春季キャンプは、ギャンブルスタートの練習から始まりました。そういえば2年くらい前に広澤さんと対談したとき、広澤さんが「あれはギャンブルスタートじゃなくて“ヒロサワスタート”だ」と命名権を主張して、ケラケラ笑ったのを覚えてるなあ(笑)。

 それはさておき、当時は、敗れた試合には敗因が必ずあるから、それをみんなで正そうっていう野村さんの方針があったんです。だからスライディングからキャンプが始まったんですよね。大同小異という言葉があるけど、「大きなことを成し遂げるには、小さなことからコツコツと」っていうのも野村さんから教わったし、93年は、それまでより細かく練習に取り組んで、チーム力も上がっていったと思います。

 この93年から、優勝、4位、優勝、4位と繰り返していくんだけど、4位になった翌年のキャンプは、まずゴルフ禁止(笑)。まあ、ゴルフはご褒美的な要素もあったから。僕としては、自分があまり試合に出ていない、ケガで離脱したシーズン(94、96年)にチームが優勝できていないのが、ちょっと救いかな、と(笑)。94年は古田も骨折して出られなかったんだけど、主力がケガで抜けるというのは、戦力的に期待されているわけだし、チームの命運と責任を背負ってるんだと、自覚が強くなりました。

 95年には広澤さんがFAで巨人に移籍してしまいます。僕と広澤さんは同時にFA権を取得したのに、「俺は出ていくけど、お前は残れ」「ええ! 本当ですかそれ!?」なんてやり取りしたのを覚えてます。広澤さんと僕は「イケトラコンビ」なんて呼ばれて、メディアでもたくさん取り上げてもらいましたし、僕の2年目に広澤さんが明大から入団されてから、兄貴分として本当にかわいがってもらいました。広澤さんのほうがボールも飛ばすしホームランもよく打つって感じだったので、僕は負けないようにとずっと頑張ってきましたから。良き兄貴分で良きライバルで、尊敬できる先輩なんです。

広沢克己[当時]との「イケトラコンビ」は絶大な人気を誇った。良き先輩であり、良きライバルであった


 いろんな人に影響を受けてプロとしてやってきましたけど、やっぱり90年代に野村さんの下でプレーした9年間というのは、僕らにとってかけがえのないもの。「野村ノート」のミーティングは、現役のときはあんまり生かされてなかった気がしていたけど(笑)、野球をやめて読み返したときに、すごく味が出るし、野球を教えたり話すときの教材になるんですよ。高津監督をはじめ、今も野村さんの教え子がみんな監督をやったりしているのは、やっぱり野村さんが、いろんな経験や知識や考え方を教え込んでくれたことが大きいと思います。「人間としてどう生きるのか」。野球とは関係ないはずだったミーティングが、今、野球の指導者として生きているんですよ。

PROFILE
いけやま・たかひろ●1965年12月17日生まれ。兵庫県出身。右投右打。市尼崎高から84年にドラフト2位でヤクルト入団。プロ4年目の87年から遊撃手に定着し、以降90年代の黄金期を支えた。5度のリーグ優勝、4度の日本一を経験している。現在はヤクルト二軍監督を務めている。通算1784試合,1521安打,304本塁打,898打点,108盗塁、打率.262。

関連情報

新着 野球コラム

アクセス数ランキング

注目数ランキング