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よみがえる1990年代のプロ野球

【90年代回顧録】ライオンズOBに聞く・伊原春樹「最も印象に残るのは90年日本シリーズ。4タテへの流れが決まった初戦、初回の攻防」

 

90年代の西武は日本シリーズに7度出場。前半は黄金時代を謳歌していたこともあり、90年から3年連続日本一に輝いた。しかし、その後は日本一から遠ざかる。西武がたどった“栄枯盛衰”を日本シリーズの思い出とともに三塁コーチを務めていた伊原春樹氏が語る。

90年の日本シリーズは初戦から巨人を圧倒し4連勝。まったくスキを見せることなく頂点まで駆け上がった


攻守にスキなくGを圧倒


 1986年に監督に就任した森祇晶監督の下、90年代に入っても黄金時代が続いた西武。森監督は在任9年間で8度のリーグ優勝、6度の日本一を成し遂げたが最強だったのは90年だろう。2位・オリックスに12ゲーム差をつけてVを奪回した西武。日本シリーズでは藤田元司監督率いる巨人と対戦した。第2次政権2年目の藤田ジャイアンツは130試合制の114試合目、9月8日にV2を決めるなどセ・リーグを圧倒。両リーグを通じて唯一2点台であるチーム防御率2.83をマークした投手陣は2年連続20勝を挙げた斎藤雅樹を筆頭に宮本和知桑田真澄が14勝、木田優夫が12勝、香田勲男が11勝と2ケタ勝利は5人。完投もリーグ1位の70を数えるなど最強先発陣が優勝への原動力となっていた。

 日本シリーズ前の下馬評は圧倒的に巨人。だが、東京ドームで行われた初戦初回の攻防が明暗を分けた。西武は巨人先発の槙原寛己から一番・辻発彦が一塁線を破る二塁打で出塁。二番・平野謙は森野球の定石どおり犠打で一死三塁に。三番・石毛宏典は二直に倒れたが四番・清原和博はストレートの四球となり二死一、三塁で打席にはデストラーデが入った。

 前年、シーズン途中にチームに加わり、83試合で32本塁打をマークしていたデストラーデはこの年、42本塁打、106打点で2冠王に。相手バッテリーからしたら要警戒の打者だっただろう。槙原はデストラーデにもストライクが入らずに3ボールに。「7球連続でボールだったので、次は絶対にストライクが来る」と読んだデストラーデは真ん中直球をフルスイングでとらえると、打球は右中間席中段へ突き刺さった。電光石火の先制劇だった。

 その裏、西武先発の渡辺久信も立ち上がりで制球が定まらなかった。先頭の篠塚利夫にストレートの四球。二番・川相昌弘に対しても2球続けてボールで、3球目にようやくストライク。続く4球目だ。バントの構えをしていた川相はバットを引き、見逃した。だが、一走・篠塚の離塁が大きい。このスキを捕手の伊東勤は見逃さず、素早く一塁へ送球してタッチアウト。巨人の勢いは止まってしまった。森監督もこのけん制をシリーズの流れを左右するプレーに挙げていたが、渡辺久はその後、立ち直り3安打完封勝利をマーク。その後も西武は巨人を寄せ付けず、4連勝で日本一に輝いた。

 翌91年は広島と日本シリーズで対戦。印象に残っているのは3勝3敗で迎えた第7戦(西武)だ。西武打線は広島先発の佐々岡真司を打ちあぐみ、4回までゼロ行進で0対1。佐々岡には第4戦(広島)で7回までノーヒットノーランに封じられていたこともあり、嫌な雰囲気が漂い始めたが、それを振り払ったのが5回裏だった。

 先頭の石毛が中前打で出塁。サードコーチャーの私は「ここで行くしかない」と思った。当然、相手投手を事前に研究していたが、佐々岡にはランナーが出たあとの初球、左足を大きく上げて投げるクセがあった。私はすかさず盗塁のサインを出したが、一走・石毛は驚きの表情。まさか初球からとは思わなかったのだろう。しかし、私は足で「行け! 行け!」と盗塁を促した。石毛はすぐにアイコンタクトで「分かりました」。そして初球、石毛は佐々岡が左足を大きく上げたスキを突き、盗塁を決めた。のちに広島・大下剛史ヘッドコーチに「まさか、あの場面で走ってくるとは……」と言われたが、この盗塁が起爆剤に。続く鈴木健が右翼越えの同点打。さらに平野謙の勝ち越し打や田辺徳雄の適時二塁打が出てこの回3点。7回には2点追加後に秋山幸二が2ランを放って7対1としたが、86年広島との日本シリーズ以来の“バック宙”ホームイン。これで西武の連覇が決まった。

最強の投手は石井丈裕


 92、93年のヤクルトとの日本シリーズも忘れ難い。92年も第7戦(神宮)の印象が強い。投手の石井丈裕の適時打で1対1と同点になった直後の7回裏、一死満塁のピンチ。ここで代打・杉浦享が一、二塁間へのゴロ。腕を伸ばして捕球した二塁手の辻は体を一回転させてホームへ。しかし返球が浮き、捕手の伊東はジャンプしてつかんだが、三走・広沢克己のいわゆる“お嬢様スライディング”にも助けられタッチアウト。勝ち越しを許さなかったが、この場面、緊張感からかベンチでは誰も声を出していなかった。私も通常なら大声を出してベンチを鼓舞するのだが、心臓がドクドクして目の前のプレーを見つめるだけだった。

 石井は8回も一死満塁、9回も二死一、二塁のピンチを気迫の投球で切り抜けると、10回に秋山の犠飛で勝ち越し。2対1で勝利をつかんだ西武が4勝3敗でヤクルトを下して3連覇を成し遂げたが、勝利のあと、森監督と握手をしたとき、その手が汗でベトベトになっていたのを思い出す。

 ちなみに92年に15勝3敗、防御率1.94で沢村賞を獲得した石井だが私はこのときの石井が西武投手陣の中で歴代最強だったと思っている。何しろ、このシーズンはコントロールが抜群。今でも思い出すのは石井が先発でロッテと対戦したときだ。あのころはバックネット裏でスコアラーがチャートを記入していて、伝書鳩のようにベンチへ持ってきていたが、バッタリとロッテの山本功児打撃コーチと出くわした。山本コーチは私にチャートを見せながら「打てっこないでしょう」と。確かにストライクゾーンの四隅に決まっていて、味方ながら「すごいな」と思った記憶がある。92年、石井はセーブも3つ。森監督が勝負をかけたときに投入するなど、フル回転したが非常にタフだった。

 93年はデストラーデが前年限りでメジャー復帰するなど戦力に陰りが見えていた。逆にヤクルトの選手は伸び盛り。第7戦まで行ったが、最終戦で2対4で敗れて、前年のリベンジを許してしまった。94年の日本シリーズも巨人に2勝4敗。この年限りで森監督はユニフォームを脱いだが、主力選手もFAなどで次から次へと去っていき、チームが生まれ変わる時期でもあった。95年からは東尾修監督が就任。黄金時代にあった規律などが緩み、緻密な野球も薄れていった。

97年、ヤクルトとの日本シリーズは1勝4敗で敗退。戦前から勝つのは難しいという予感が漂っていた


 97年に3年ぶりのリーグ優勝を果たして、日本シリーズでヤクルトと対戦。野手ではまだ若い松井稼頭央大友進高木大成らが主力となり、投手でも西口文也がエースになったばかりだった。ヤクルトは95年にも日本一に輝いており、成熟期を迎えていた。92年時とは正反対で、心の中で私は「勝つのは難しいかな」と思っていたのは事実だ。

 そのとおりに西武球場での初戦は石井一久の前に1対0の完封負け。第2戦(同)は6対5とサヨナラ勝ちしたが、第3戦、第4戦(神宮)は3対5、1対7対で連敗。王手をかけられて迎えた第5戦(同)はテリー・ブロス-山本樹-石井一-伊藤智仁-高津臣吾のリレーの前に打線が沈黙。3対0であっさりと負け、1勝4敗で西武は日本一をつかむことができなかった。

 もし、東尾政権時に、もう少し黄金時代のいい点を継承していれば西武の歴史も変わっていたか……。そんな夢想にふけることもある。

PROFILE
いはら・はるき●1949年1月18日生まれ。広島県出身。右投右打。北川工高(現・府中東高)から芝浦工大を経て、71年ドラフト2位で西鉄入団。76年巨人に移籍し、78年古巣に復帰して80年限りで現役引退。その後、西武黄金時代の名三塁コーチとして高い評価を受ける。2000年阪神コーチ、01年西武コーチから02〜03年西武監督、04年オリックス監督、07〜10年巨人ヘッドコーチ、14年西武監督。

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