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よみがえる1990年代のプロ野球

【90年代回顧録】ファイターズOBに聞く・白井一幸「『どうやったら勝てるのか……』と球場に行って試合をするのがワクワクして仕方ありませんでした」

 

1981年の優勝以降、日本ハムは低迷期に突入する。80年代中盤から90年代前半はBクラスに沈むシーズンが多かった。そうした状況の中で好打の両打ち、堅守の二塁手としてチームを支えたのが選手会長も務めた白井一幸だった。

90年代はゲッツー崩しのスライディングも過激だった。白井の足やヒザのケガの多くがこのプレーによるものだった


91年左肩の大手術


 私が在籍した1980年代から90年代のファイターズは低迷期の真っ只中。90年代は4人の監督の下でプレーしましたが、それぞれ苦労もされていました。近藤さん(近藤貞雄、90〜91年)は比較的自由でのびのびとやらせてもらいました。年齢は重ねていましたが、考え方が柔軟で選手たちを大人扱いしてくれた。激情家の一面もありましたが、普段はジェントルマンでお洒落。オンとオフの切り替えが素晴らしかったですね。逆にそのあとの土橋さん(土橋正幸、92年)はとても厳格で、ユニフォームを着ているときも、脱いでいるときも厳しい方でした。そういうときにチームの成績が出るといいんですけど、成績が悪かったですから、監督がどうこうではなくチーム内は少し暗い雰囲気ではありました。

 それを一掃したのが大沢さん(大沢啓二、93〜94年)でした。フロント業務が長く、チームを知り尽くしている方で、93年は全員が一丸となって開幕からいいスタートを切った。選手たちも「オレたち、いけるんじゃない?」といった雰囲気の中で、あれよ、あれよで優勝争いに加わった。この西武と優勝を争ったシーズンはすごく印象に残っています。2年で大沢さんが辞められたあとが上田さん(上田利治、95〜99年)。私は95年の1シーズンしか一緒に戦っていませんが、阪急で指揮を執られた時代から名将と呼ばれた方で、一言で言えば、本当に記憶力がよかった。〇年〇月にこんな試合、こんな場面があったとか、スラスラ出てくる方でした。野球の1プレー1プレーに妥協のない指揮官でした。

93年は最後まで西武と優勝を争った。9月8日の近鉄戦[東京ドーム]では延長10回にサヨナラ弾を放って大沢監督に迎えられる


 私自身は88年の足の骨折から89年は129試合に出場して復活。さらなる飛躍を期して臨んだ90年に肩に大きなケガを負ってしまいました。二塁の守備で、ダイエーのトニー・バナザード選手とゲッツーの際に交錯。スライディングで足をすくわれた私は、右肩から落ち、腱板を損傷してしまいます。選手生命も危ないと言われるほどの大ケガでした。1カ月ほどのリハビリでよくならず、藁(わら)をつかむ思いで手術を受け、なんとか成功。とはいえ、術後のリハビリは壮絶でした。腕を上げたまま1カ月以上肩を固定されました。手がなかなか下に降りてこないわけですから、そこから少しずつ可動範囲を広げていきました。つらく、長い復帰までの道のりでしたが、「絶対にこのままで終われない」という気持ちが強かったです。

 肩は徐々に回復に向かい、91年のキャンプイン直前にようやくキャッチボールができる状態にまで回復。キャンプでは塁間が届かず、オープン戦もほとんど守備に就かずDHでの出場のみで、開幕になんとか守備が間に合ったという感じでした。それでも91年はキャリアハイの打率.311を打つことができた。肩がダメなのでバッティング練習しかできなかったので、その成果でしょうか(苦笑)。この年は最高出塁率.428でタイトルを獲ることができ、さらにカムバック賞もいただいた。個人的な達成感はありましたが、なかなかチームが成績を残せなかったのがつらいところでした。

 私は現役時代、球界でも先駆けとなる取り組みをしていますが、その一つがメンタルトレーニングです。もともとウエート・トレーニングを真っ先に採り入れました。80年代当時、ウエートは一般的でありませんでしたが、私はプロでやっていくには力不足を痛感して周囲の反対を押し切ってやってみた。そして一定の成果を出すと、次はメンタルを鍛えようと思い、大きなケガをした際にメンタルも鍛え始めました。結果を出すためにはタブーはない、やりたいことをやっていこうと。ですから、91年に肩の手術後のリハビリ期間もメンタル・トレーニングをやっていたから乗り越えられたと思っています。今でこそ、メンタルやウエートはあたり前ですが、当時は非常に珍しかった。そういう経験は引退後に指導者になったときに、生かすことができたと思います。

西武を追い詰め2位


 肩のケガから復帰後、92〜93年も安定してプレーを続けることができました。そして、選手会長として3年目の93年にファイターズは西武と首位争いを繰り広げます。自分のプロ野球人生において優勝争いは、このシーズンのみでしたね。8月に首位にも立つなど充実した1年でした。ずっとBクラス争いをしていると、シーズン終盤は試合に対するモチベーションを高めるのが難しかったものです。けれど93年は、「どうやったらチームが勝てるのか……」と球場に行って、試合をするのがワクワクして仕方ありませんでした。気持ちを自分で奮い立たせる必要がなかったんですから。選手が伸びる、チームが強くなるというのは、こういう環境で野球をするのが大事だと初めて感じました。

 残り17試合時点でゲーム差なしまで西武を追い詰めましたが、結果として1ゲーム差の2位。あの当時は西武が圧倒的な強さでしたから、あれだけの戦力差の中、よくやったと思いますし、あの経験はファイターズにとっては大きかったです。自分のキャリアの中でも最も充実した1年だったように思います。

 当時は駒大の1学年先輩である広瀬(広瀬哲朗)さんと二遊間を組むことが多かった。広瀬さんは社会人を経ての入団で僕のほうが先にプロ入りしましたが、大沢さんが広瀬さんをレギュラーに抜てきされて、大学以来となる二遊間を一緒に守りました。コンビネーションは問題なし。何より広瀬さんはファイトをむき出しにしてプレーされてましたので、そういう姿は優勝争いをするチームに好影響でした。

 優勝まであと一歩のところまで来て、「来年こそは」とチーム全体で強く思っていましたが、94年は成績が出ずに、大沢さんが土下座して辞任。上田さんが監督に就任されました。95年に私は再びヒザを痛めて4回目の手術。翌年にはオリックスに移籍しましたが、足のケガでほとんどプレーできずに二軍で過ごす時間が多かったです。ですから、現役を引退する決断は早かったです。日本ハム時代はほとんど二軍を経験してこなかったので、オリックスでの経験はとても勉強になりました。それも指導者になったときに役に立ちました。

 90年代は私のキャリアでも後半にあたります。プレーヤーとしてできることはすべてやったという達成感はあります。一方で現役時代は主力選手として優勝を経験できなかったという悔しさも残っています。でも、その悔しさは次に生かすことができた。私は、すべてはそのときにどう感じるかではなく、起きたことをその後にどう生かすかが大事だと思っています。今でも目の前に起きていることをどう次に生かすかという部分に意識が向いていきます。そういう意味では、現役時代は人生の中でも特に学びが多く、かけがえのない経験をしたと思っています。

PROFILE
しらい・かずゆき●1961年6月7日生まれ。香川県出身。右投両打。香川・志度商高から駒大を経て、84年にドラフト1位で日本ハム入団。91年に最高出塁率(.428)のタイトルを獲得。94年には二塁手のシーズン連続守備機会無失策545回の日本記録更新。96年オリックスへ移籍し同年限りで引退。現在は企業研修講師、野球解説を務める。通算1187試合出場、49本塁打、334打点、168盗塁、打率.246。

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