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よみがえる1990年代のプロ野球

【90年代回顧録】ホークスOBに聞く・村松有人「『自分たちはできるんだ』『勝つんだ』という気持ちでやらなくてはいけないのがだんだんと分かってきた」

 

足に活路を見いだしたことで、選手としての方向性が見えた。ちょうど転換期を迎えて徐々に強くなるチームとともに、自身も成長。弱さも強さも知っているからこそ、信じた道を突き進むことができる。

自身にとってのターニングポイントは1995年、高橋コーチとの出会い。失敗を恐れぬ盗塁で、翌年にはタイトルを獲得


ターニングポイント


 ドラフト6位でホークスに指名を受けたのが1990年の秋。当時のパ・リーグは西武が強さを誇っていて、ホークスはBクラスから抜け出せずにいました。ただ、そんなチーム事情は関係なしに、僕はワクワクした気持ちでしたね。

 1年目はアメリカに野球留学をして、サリナス・スパーズ(マイナー・リーグ1A)というチームでプレーをしました。ダイエーから4、5人、ヤクルトからも4、5人が派遣され、向こうのトライアウトで選出された選手たちと1シーズンを戦う。僕は高卒1年目ということもあって、出場試合数は160くらいだったかな。異国での生活はしんどいこともありましたが、いろいろなことを経験できたスタートでした。

 ホークスに戻って迎えた2年目の92年もチームの成績は相変わらずでしたが、それでも僕からしたらすごい選手ばかりで、そこに割って入ってレギュラーつかむイメージは、なかなか湧きづらかった。やるからには何とかのし上がっていったろうという気持ちはありましたけど。正直なところ、チームが強いだとか弱いだとかを背負う立場でもなかったですし、自分のプレーをして、一軍でプレーをすることが目標。そのために、二軍で結果を残すことが必要でした。

 ただ、3年目、4年目とケガをしてしまって、自分の中に危機感が。実績のない5年目選手、しかも左バッターの外野手なんて替えの利く、戦力外候補です。毎年新しい選手も入ってきますし、今年やらないとヤバイなと思っていたところ、一軍打撃・走塁コーチに就任した高橋慶彦さんとの出会いが、僕にとってはターニングポイントとなりました。

 足が速いという共通点もあって、いろいろと面倒を見てくださり、特に打撃面、走塁面は一から教えていただきました。高橋さんからは「持ち味として足を生かさないと試合に出られないよ」と。大きいフライではなく、しっかりと強いゴロ、ライナーを打っていく。センターから三遊間の方向を狙うイメージで練習を重ねていきました。

 もちろん大きい一打を打ちたいという気持ちも捨て切れていませんでしたが、高橋さんから徹底的に教え込まれて、徐々に打率も上がってきた。試合に出て結果にも表れたことで、方向性は間違っていないとはっきりしましたね。

 それは走塁面に関しても同じで、96年には盗塁王に。タイトル自体は僕の中ではそこまで意識はなかったのですが、前年に32盗塁していたことで周りからの期待は大きくなっていて。僕としては前年に規定打席に到達していなかったことのほうが気になっていたので、何とかレギュラーを獲って規定打席というところがまずはあった。引き続き高橋さんの指導を仰いで「塁に出たら走る」「アウトになるのを恐れず」攻めることができました。

 ただ、チームの状況や試合の流れなどを考えたら、アウトになってはいけない場面でアウトになったりもしていたので、複雑な思いもありましたね。チームは最下位に終わりましたし、責任を感じる部分があったのは事実。まだ実績のない選手ということで、大目に見られていたのかもしれません。

負けに慣れていたらダメ


 入団当初は田淵(田淵幸一)さん、93年からは根本(根本陸夫)さん、95年からは王(王貞治)さんと、90年代は3人の監督の下でプレーをしました。先ほど話したとおり1年目はアメリカで田淵さんとは実質1年ご一緒しただけでしたが、一軍でプレーする際には「思い切っていけ」と背中を押してくださいました。

 印象深かったのは、92年10月1日の近鉄戦(平和台)。相手先発は野茂(野茂英雄)さんだったんですが、二番・中堅でスタメン出場した僕に、田淵さんが「お前打てないから、全部(セーフティー)バントしてこい」と。監督に言われたら従うしかないじゃないですか。野茂さんも真っすぐ勝負だったのでチョコンと当てたら4打席中2打席がヒットに。打ちたい気持ちもありましたが、結果的に良かったと思いましたね。この試合、平和台で行われるプロ野球最後の試合で、しかも門田(門田博光)さんの引退試合だったんです。大事な試合でスタメンで使ってもらい、バントヒット2本。忘れられないですよ。

 根本さんは見るからにコワイというか、一見近寄りがたい感じなのですが、選手一人ひとりに細かくアドバイスをしてくださる方でした。技術的なことも多く、一つひとつの動きをきっちりと教えてくださる。どんな選手にも分け隔てなく接してくださっていましたね。

 そして、王監督。先ほど95年が僕にとってのターニングポイントという話をしましたが、この年から王監督が就任したことで、チームにとっても大きな意味を持つ年になりました。やっぱり常勝・巨人にいた方なので、負けることに対しての悔しさをもっと出さなきゃいけない、喜怒哀楽を出していこうと。当時の僕らは負けても当たり前というか、どこか慣れてしまっている感覚があったので、負けて悔しいとか、打てなくて悔しいというのが見えなかったんでしょうね。悔しくないと練習しないですし、うまくはならないというのを感じていたと思います。監督自身が当然悔しかったはずで、「常にその気になってやるんだよ」とおっしゃっていました。

 最初はよく意味が分からなかったのですが、『自分たちはできるんだ』『勝つんだ』という気持ちでやらなくてはいけないのがだんだんと分かってきた。“勝つこと”を強くイメージするようにはなりましたね。そこに、別に根拠はいらないんですよ。自分たちが一番強いんだ、勝つんだ、どこにも負けないんだ、という強い気持ちで試合に挑む。王監督は常々言われていました。負けに慣れていたら強くなれない、と。

 やっと監督の気持ちに選手が同調できてきたというか、ついていけるようになってきたのが96、97年あたりから。98年にはシーズン終盤まで優勝を争い、届きはしませんでしたがAクラスを手にできた。勝ち方というのが、だいぶ選手個々でも分かってきての99年だと思います。

王監督が就任してからリーグ優勝、日本一までの道のり、変革の5シーズンを、村松[背番号23]は「短いようで長かった」と振り返った


 やっぱり一番思い出深い年ですよ。福岡に来て初めての優勝ですし、王監督就任以降、何とか早く優勝を、というのがありましたから。ようやく“優勝できた”なと。就任5年目、僕としては短そうに見えて結構長かったという思いがありますね。

 王監督だけでなく、ベテランの方々の力も大きかったです。投手では工藤(工藤公康)さん、98年までは武田(武田一浩)さんもいて、野手では秋山(秋山幸二)さん、小久保(小久保裕紀)さん。そういった“柱”となる方々に、城島(城島健司)や松中(松中信彦)といった勢いある選手もレギュラーに名を連ねて、ある程度メンバーを固定して戦えるようになった。いい戦いができてくるようになると、一人ひとりがいい仕事ができれば勝っていけるという雰囲気も出てきて。

 しかも、ベテランの方々が練習から熱心に取り組むので、若い選手たちも「もっとやらないと、レギュラーは獲れない」というのが見れば分かる。いい意味で強くなる習慣がついたと思います。今の現役選手では松田(松田宣浩)あたりが、その習慣が根付いている一人でしょうね。

PROFILE
村松有人/むらまつ・ありひと●1972年12月12日生まれ。石川県出身。左投左打。星稜高から91年ドラフト6位でダイエー(現ソフトバンク)入団。1年目はアメリカに野球留学。96年に盗塁王を獲得。2003年にはサイクル安打、歴代5位タイ(当時)の13三塁打などを記録。同年オフ、FA権を行使してオリックスへ。09年に古巣復帰すると、外野のスーパーサブに。10年限りで引退後はスカウト、14年からはコーチとなり、現在は一軍外野守備走塁コーチを務める。通算1673試合、4981打数、1380安打、18本塁打、393打点、270盗塁、打率.277。

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