週刊ベースボールONLINE

よみがえる1990年代のプロ野球

【90年代回顧録】ドラゴンズOBに聞く・山本昌「星野監督と高木監督の下で学んだ10年。自分がエースと思ったことは一度もありません」

 

90年代は3度の最多勝に最優秀防御率、最多奪三振、沢村賞のタイトルを手に入れた。今中慎二との左腕二枚看板は“Wエース”と呼ばれ、他球団の脅威となっていた。ドラゴンズの背番号34を背負って50歳まで投げ続けたレジェンドの90年代の記憶。

90年代のドラゴンズを代表する投手と言えば、今中[左]と山本昌の2人。多くの勝利をチームに運んだ


Wエースの記憶


 1990年代のドラゴンズは強かった記憶がありますよ。2位が5回(91、93、94、96、98年)というのもドラゴンズらしいですし、最下位になったのも2回(92、97年)ありましたからね。

 91年は夏場が終わっても首位に立っていたんですが、最後は広島に持っていかれました。93年も終盤までヤクルトと優勝争いをしていて最後に突き放されました。これは悔しかったですね。僕がランニング中に打球をよけようとして右鎖骨を骨折して戦線離脱となったんです。そこまで15勝4敗でヤクルト戦は6勝負けなし。今中(慎二)もヤクルトには4勝負けなしでしたから、ヤクルトに優勝をさらわれたのは本当に悔しかったですね。翌94年は皆さんもご存知、長嶋巨人との「10.8」決戦で敗れての2位ですから、90年前半はよくやってますよ。勝負弱いと言われれば、それまでなんですけど(笑)。

 90年はまだ星野仙一監督の第一次政権時代。僕も若かったですけど、星野監督も若かった。まだ泥臭い、熱い野球をやっていた時代だったと思います。星野さんが91年に一度辞められて、次にやってきたのが高木(高木守道)さんでした。星野さんにはよく叱られましたが、それが期待の裏返しでもありました。高木さんは真逆で、一度も叱られたことはなく、すべてを任せてくれました。ですから自然と「ここまで任されたら頑張らないといけない」という気持ちになるんです。僕は93、94年の成績がキャリアハイなんですが、これはそうした気持ちがつながったのだと思います。本当に大人の扱いをしてくれました。ただ、そんな高木監督を一度も胴上げできなかったことは、僕の野球人生の中の悔いの一つとして今でも残っています。

 長嶋巨人との「10.8」にしても、もちろん勝って優勝できれば最高でしたけど、プロ野球選手としてあんな経験ができたというのは大きかったですね。おそらく長いプロ野球の歴史の中で最大の“お祭り”的な試合。その当事者でいられたっていうのは、今思えばですけど、素晴らしい体験だったと思います。

 90年代のドラゴンズには今中という素晴らしい左腕がいて、僕とともに「Wエース」と呼ばれた時期もありましたが、僕自身はまったく意識していませんでした。Wエースと思ったこともありません。チーム内でもファンの中でも、じゃあどっちがエースだと思うかと聞かれたら、おそらくみんなが今中と答えたと思うんです。僕もそう思っていましたから(笑)。本当にチームから信頼されて使われていたのは僕ではなく、今中だったと思います。

 僕は永遠の二番手、三番手という感じでした。その後に今中が故障しても(左肩痛)、野口(野口茂樹)だったり、憲伸(川上憲伸)が出てきたりしてエースにはなれなかった。でも解説者になって思うんですが、僕みたいな投手が二番手なり三番手にいるチームというのは強いなと思うんです。ある程度の投球回数を投げてくれて、2ケタは勝ってくれる投手。それが僕が長くユニフォームを着ることができた要因だったようにも思っています。

幸せな野球人生


通算219勝はドラゴンズの最多勝利数。そのうち109勝を90年代に稼いだ


 90年代の通算勝利数は僕が2位なんですか? となると1位は……斎藤(斎藤雅樹、巨人)さんでしょう? (斎藤126勝、山本昌109勝)。僕にとって斎藤さんは“超えられない壁”なんです(笑)。90年代の最多勝は僕が3回(93、94、97年)で斎藤さんは4回(90、92、95、96)なんですよ。

 90年代の前半はまだ泥臭い調整法でしたね。調子が悪いなら走ろう、投げ込もうっていう感覚的なものが多かった。2000年代に入ってから身体の使い方、メカニズム的なことが自分の中で分かってきて、当時その知識があったら、なぜ調子が悪いのか、今ここがおかしい、ここが悪いから結果が出ないということを説明できたと思います。ただ、それが分かっていればもっと成績が良くなっていたとは思いません。当時の精神論というか、調子が悪いから汗を流そうみたいな調整法も必要だったと思いますから。僕だけでなく、プロ野球全体が過渡期だったようにも思います。90年代後半からは調整や練習、技術的なものなど感覚的なものから論理的なものへとだんだん変わっていったように思います。

 変化球の革命が起き始めたのも90年代の後半からじゃないですかね。カーブ、スライダーから、チェンジアップやサークルチェンジ、カットボールとか、小さな変化、動く変化が目立つようになってきました。先発の100球が目途になってきたのもこのころで、先発は完投が理想という概念も少しずつ壊れてきたように思います。

 ドラゴンズで言えば、97年から本拠地が狭いナゴヤ球場から広いナゴヤドームに変わりました。僕はもうここでホームランを打たれたら仕方がないと思いました。それくらいとんでもなく広く感じました。それで思いきって投げられての最多勝。ただチームは最下位でした。やっぱりあの広さに対応できなかった結果だと思います。特に打者は戸惑ったはず。(スタンドに)入ったと思った打球がなかなか入らず、力んでしまったのかなと。これではダメだと星野さんが大豊(大豊泰昭)さんと矢野(矢野燿大、現阪神監督)を阪神に出して、関川(関川浩一)と久慈(久慈照嘉)を獲得したんです。広いドームに合った足があって守れる野手が欲しかったんでしょう。でもその矢野が今は阪神の監督をやっていますからね。ドラゴンズで言えば、名手の久慈が入団していなければ、あそこまで井端(井端弘和)が成長できていたかどうか。両チームにとってよいトレードだったと思います。

 93年オフに落合(落合博満)さんがFAで巨人に移籍し、味方から敵になりました。もちろん戦力的には痛くないはずはないんですが、それによって出てくる選手も必ずいるわけです。翌94年に大豊さんは本塁打王、打点王の2冠ですから。誰かが抜ければ誰かが出てくる。僕はそれがチーム力だと思います。

 90年代のドラゴンズで思い出に残っている助っ人と言えば、何と言ってもパウさん(アロンゾ・パウエル)。3年連続首位打者ですよ。パウさんは本当に人格者でした。あとは宣銅烈、ゴメス(レオ・ゴメス)。宣さんも人格者でしたね。バンスローは終盤まで首位打者争いをしていましたけど(90年)、あまり固執していませんでした。メジャーで選手会長も務めてね。敬虔(けいけん)なモルモン教徒でしたから、星野さんの鉄拳制裁などが合わなかったんじゃないかな(笑)。

 僕にとって90年代は25〜35歳の10年間にあたり、星野監督、高木監督の下で、みっちりと野球を勉強させてもらった時期ですね。よくぞこんな遅いボールで沢村賞を獲れたし、最多勝も3回、最優秀防御率のタイトルも手にできたと思います。悔しい思いもしましたけど、そんなことは些末(さまつ)なこと。こんな素晴らしい野球人生を歩んだ選手はいないんじゃないかな(笑)。

PROFILE
やまもと・まさ●1965年8月11日生まれ。神奈川県出身。左投左打。日大藤沢高から84年ドラフト5位で中日入団。88年終盤にアメリカ留学から帰国。94年に沢村賞、93、94、97年と最多勝獲得。41歳1カ月でノーヒットノーランなど数々の最年長記録を打ち立て2015年に50歳で引退。通算581試合登板、219勝165敗5セーブ、防御率3.45。本名は山本昌広(やまもと・まさひろ)。

関連情報

新着 野球コラム

アクセス数ランキング

注目数ランキング