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よみがえる1990年代のプロ野球

【90年代回顧録】オリオンズ&マリーンズOBに聞く・前田幸長「プロとしてどうなの? な面もあったが、人気球団へのきっかけを得た時代だった」

 

10年間でAクラスもただ一度。ロッテにとって1990年代は暗黒の時代だった。優勝を争うこともなく、球場には閑古鳥が鳴き、黒星が重なった。ただ、この時代は変化への兆しをつかんだ時期でもあった。95年まで在籍した前田幸長氏に思い出を聞いた。

1992年7月19日、千葉マリンで初めて行われたオールスターゲーム[この年の第2戦]に先発した前田


お客さんが数え切れた? 雨の日の川崎球場


 僕は入団が1989年なのですが、当時は本拠地が川崎。寮は浦和にありましたが、今の寮に建て替えられる前の古い寮でした。僕は階段を上がって一番手前の、テレホンカード式の公衆電話が3台置かれているすぐそばの部屋でした。電話が近くにあるからいいのかと思いきや、これが結構鳴るんでうるさい。そのたびに「○○さん、お電話でーす」とマイクで呼び出しがかかるし。もう平成でしたけど、そんな昭和チックな寮でしたね。

 ただ、僕の場合は2年目の90年から一軍にいたので、ほとんど寮にいることはなくなりましたけどね。一軍選手は、川崎で試合があるときは大森のホテルに宿泊になるんです。ですから、それからはもう、ホテル暮らしが日常になりました。

 本拠地の川崎球場は……、やっぱり、当時東京ドームもまだ開場してすぐで新しかったし、西武球場(現メットライフ)もきれいだったし、そういうのを見るとね。暗いし、古いし、汚い……というイメージではありました。ロッカーも狭くて、ちょっと湿気があってカビが生えそうなにおいがしてね。当時は球場のケータリングもかき揚げのうどんとそばとおにぎりぐらいでした。名物のラーメンの出前は、当時はベテランしか頼めない雰囲気があったんで、「何回食べたかな?」程度です。

 そして、プロ野球だからお客さんがいるものかと思いきや、誰もいない(笑)。天気の予報の悪い平日のナイターなんかは、「1、2、3……」と数えて数え切るのに苦労しない人数だったこともあります。当時、西武戦だけは比較的お客さんが入ったので、土、日曜のデーゲームで西武戦があると、「これがプロ野球だろ」という晴れやかな気分でプレーができたように思います。

 ロッテは90年から金田(金田正一)さんが監督になられますが、いや、このときはホントによく走りました。キャンプなんか、朝の散歩から、散歩と言いつつ走らないとついていけない。散歩は陸上競技場に行くんですけど、そこまで散歩、じゃなくて、そこから散歩、ですからね(笑)。練習になったら、またウオーミングアップが1時間半から2時間弱。そこをやっと乗り切ると、午後は鴨池のサブ球場に移動して、グラウンド1面を投手陣だけで使って、走って、捕って……。僕と伊良部(伊良部秀輝)さんら若手は宿舎に帰るのが夕方5時半ぐらいでした。帰ったらすぐ風呂(ふろ)に入って、6時から食事。これは時間をかけて摂りなさい、ということになっていて、そのあと夜は8時からミーティングです。さすがに疲れて居眠りしたら、メチャクチャに怒られた記憶があります。まあ当たり前ですけど。でもあとから考えると、あの練習で、長くプロでやるための体の貯金というのはできたのかなと思いますね。

口では「優勝」と言っていたけれど……


 そして92年に、千葉にチームが移転します。えらいかわいらしいユニフォームになってね。斬新で、僕らも若かったから「まあ面白いかな」という感じで、別に着るのは嫌ではなかったですよ。ただ、「弱そうだな」とは思いましたけどね(笑)。

 千葉マリンスタジアムは、ロッカーも広く、きれいになって「これがプロ野球の球場でしょ」と思いましたね。グラウンドも川崎球場より広くなったので、「これで被本塁打が減るわ」と、少し安心しました。

 まずは広く、きれいになった本拠地に喜んでいたんですが、そのあとですね。風が大変だということに気づいたのは。当時、僕は体重が64kgぐらいしかなかったんで、強風が吹くと揺れるんですよ。僕は若いときはワインドアップで投げていたんですけど、風のある日はセットポジションで投げるようにしました。風が吹いたらマウンドを外せばいいので、さすがにボークを取られることはなかったですけど、風には悩まされました。まあ、ナックルなどの変化球はけっこう落ちたかもしれないので、風が有効に働いてくれた部分もあったかもしれませんけどね。

 92年には、千葉マリンで初めて行われたオールスターにも出させていただきました。古田(古田敦也=ヤクルト)さんがサイクルヒットを打った試合ですが、僕、先発でライトにフェンス直撃の三塁打を打たれたので、大きく貢献していますね(笑)。まあ、名誉か不名誉か分かりませんが、歴史に名を残しました。

 若手時代は、僕は年の近い伊良部さんと一緒にいることが多かったですね。ウマが合うというか。伊良部さんは、150キロを超えるボールを持ちながら、ちょっと伸び悩んでいる時期があり、僕のほうが先にローテーションで投げていたので「お前の“ひょうろく球”で何で勝てるんや」とよく言われていました。でもそこからですよね、伊良部さんが投球メカニックとか、打者をどうしたら打ち取れるのかを熱心に研究しだしたのは。だからそのあと伊良部さんがブレークしたのは僕のおかげかもしれないですよ(笑)。

1993年からは、アリゾナでの海外キャンプも行われた。左から前田、小宮山悟、伊良部、加藤高康の投手陣


 まあしかし、当時はよく負けました。僕が点を取られなければよかったんでしょうけど、波の激しいタイプでしたから。チームが弱い時期というのもあって、なかなか勝ち星が増えなかった。いつも、8勝、9勝止まりで。一回ぐらいは2ケタ勝ちたかったですけどね。

 当時はとにかく西武が強くて、だいたいオリックス、近鉄と優勝争いをしていた。僕らも口では「優勝」とか言っていましたけど、それは現実的な目標ではなかったですね。できるわけないと思っていました(笑)。僕らはいつも、ダイエー、日本ハムとBクラスで争っていた。同じリーグでしたけど、上位とはちょっとグループが違うという感じでしたね。

 95年、バレンタイン監督のときは、チームは2位になりましたが、僕自身が調子が悪くて、自分が「どうしたらいいんだ?」っていうことで精いっぱいだったので、チームの雰囲気がいいとかどうとか感じている余裕がなかった、というのが正直なところです。

 94年、95年は成績が悪く、でも、まだ体が衰える年ではなくて、自分では技術的に変えなければいけない部分が発見できなかった。だからまずは環境を変えてみようと、「トレードに出してくれ」ということは言っていたんです。それで95年のオフに、中日に決まりました。

 外に出てみて分かったのは、やっぱりロッテは優勝争いをしたことがなく、緊張感のある戦いをしていなかったんだな、というところです。95年も2位でしたが、首位とはだいぶ離れていましたからね。中日に行ってみたら、監督も星野仙一さんだったし、緊張感しかなかった(笑)。

 そういう意味では、僕がいた90年代前半のロッテは、お客さんも入らないし、プロとして疑問の残るようなチームではあったんですけど(笑)、その後のことを考えると、92年に千葉に移転したのは大正解でしたね。川崎市民には申し訳ないですけど。

 95年にバレンタイン監督を呼んだことも、2度目の就任のときに選手たちが躍動して花開きましたし、90年代は、その後ロッテがパ・リーグの中でも人気球団になっていくためのきっかけが作られた、そんな時代だったのかなと思いますね。

PROFILE
まえだ・ゆきなが●1970年8月26日生まれ。福岡県出身。左投左打。福岡第一高では3年夏に甲子園準優勝。ドラフト1位で89年にロッテ入団。ナックルなどの変化球を武器に、プロ2年目から先発ローテーションに入って活躍した。92年にオールスター出場。96年に中日、2002年に巨人に移籍、19年間のプロ生活を過ごし、07年限りで引退。通算595試合登板、78勝110敗9セーブ12ホールド、防御率4.17。

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