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よみがえる1990年代のプロ野球

【90年代回顧録】ベイスターズOBに聞く・川村丈夫「98年開幕戦と日本一を決める試合に先発して勝利。この2試合が僕の野球人生を支えている」

 

東京六大学の立大を経て、社会人の日本石油では都市対抗V、アトランタ五輪も経験した。アマチュアでの実績を抱えドラフト1位で1997年に入団した川村丈夫。2年目で経験した横浜38年ぶりの歓喜は、若き右腕の記憶にも強烈に刻まれている。

開幕戦での1安打完封勝利は史上3人目の快挙。試合後はマラべ[右]とお立ち台に立った


社会人から即戦力で入団


 チームは僕が入団する1997年の少し前にベテランの方々が何人かが入れ替わり、投手陣は自分と同年代の若い選手がそろっていました。バッテリーチーフコーチは権藤(権藤博)さん。あまり細かいことはおっしゃらないですし、とにかく攻めて打たれたのではあれば、こっちの責任だと言っていただいた。僕に関しては、真っすぐと対となるボール、チェンジアップを投げろというのが唯一のアドバイスでした。それ以外は「お前たちの好きにやれ」と、やりたいようにやらせてもらいました。

 僕は社会人で金属バットの打者と対戦していたこともあり、プロの世界にも違和感なくというか、レベルの違いもそれほど感じることなく入ってこれたように思います。多少なりとも、自信と自負もありました。あのころ、社会人のトップクラスでやっている選手は今以上に即戦力としての期待値は高く、僕も「やってやる」という気持ちが強かったです。もちろん木製バットとはいえ、プロの打者は当てる技術が高いので苦労はしましたが、社会人から高いレベルを相手に投げられていた経験は大きかったですね。

 1年目のキャンプ、オープン戦ではあまり結果が残せませんでした。迎えた初登板・初先発(4月6日、中日戦=ナゴヤドーム)で、5回途中1失点で初勝利を挙げることができた。今振り返るとすごく緊張していたし、試合の内容はほとんど覚えていないです。先頭打者だったかな、盗塁を谷繁(谷繁元信)さんが二塁で刺してくれたのが印象深くて、それで気が楽になり、落ち着いて投げられたという記憶が残っています。プロ初登板で勝てるか、勝てないかは、ものすごく大きな別れ道だったので、そこで勝てたのは大きな自信になりました。

 97年の横浜は7月に13勝5敗、8月に20勝6敗と好調でした。僕自身もその勢いに乗るように先発ローテで投げていましたが、連勝で自分の登板に回ってくるんですよね。誰で負けるんだ? というような雰囲気で、プレッシャーはありました。その中でも同年代の投手には負けたくなかったです。三浦大輔戸叶尚がいいピッチングすると「あいつには負けられない」という思いが強かったです。

 8月には首位ヤクルトに迫りましたが、ルーキーの僕は優勝争いをしているという感覚はそれほどなかったです。それでも9月のヤクルトとの直接対決で石井一久にノーヒットノーランを食らった試合は、当時は打線のチームでもあったので完膚なきまでにやられてチーム全体がガクッとなったのは覚えています。その後、チームに再び追い上げる力は残っていなかったです。

 ルーキーイヤーは10勝7敗、防御率3.32という結果でしたが、2ケタ勝てたのは当時のメンバーに恵まれていたからだと思います。失点しても、打線が取り返してくれた。マシンガン打線ばかりがフューチャーされますが、実は守備も堅かった。三遊間の進藤達哉さん、石井琢朗さんのコンビには助けられたし、何より一塁の駒田さんがすごくうまくて、プロのファーストにはすごい方がいるんだなぁ、と思わされました。駒田さんがボールを後ろに逸らす姿を見たことがなかったですから。

苦しんだ98年後半戦


 大矢(大矢明彦)監督が退任され、98年に権藤さんが監督に就任されます。よく監督になると人が変わってしまう方もいますが、権藤さんの野球人としての生き方は、コーチであっても、監督であってもまったくブレることがありませんでした。選手に責任を持たせて、自由にやれと。何かが変わったという感じはありませんでしたね。

 僕が開幕投手を言い渡されたのは、オープン戦の最終日でした。権藤さんから「お前に任せた」と。あのシーズン、開幕投手候補だった野村弘樹さん、三浦がいる中で言い渡されたように記憶しています。阪神との開幕戦(4月3日、横浜)は1安完封勝利を挙げることができましたが、先頭の和田豊さんにいきなりヒットを打たれて、緊張がとれました。とにかく試合をつくっていけば、打線と守備は素晴らしかったので何とかなると。そんな感じで投げていました。この開幕カードで横浜は3連勝を飾りましたが、投手起用に関しても権藤さんの勝負勘が働いたように思います。野村さんを3戦目に置いて、開幕投手を熱望していた三浦をあえて2戦目に持ってきた。後付けになってしまいますが、勝負師の判断だったと今でもそう思います。

 僕自身は開幕戦勝利から前半だけで8勝。しかし、ケガがあったわけでもないのに、そこからまったく勝てなくなり、後半戦は0勝に終わります(8勝6敗、防御率3.32)。だから98年の中盤以降は、苦しい思い出しかありません。理由はいろいろあるとは思いますが、前半8勝を挙げたことで多少の慢心と、相手が研究してきたことが大きかった。プロ入り2年目で疲労を感じる試合もありました。もともと球種が少なかったので打者に対応され始めると抑えることができませんでした。

 チームはリーグ優勝を決めたのに、自分の調子は上がってこない。西武との日本シリーズではリリーフで待機していて、正直、怖さのほうが強かったです。とはいえ、第6戦(10月26日、横浜)の先発に指名されると、「もう、やるしかない」と腹をくくりました。怖いとか言っている場合じゃなくなった。チームもこのシリーズで波に乗っていたので、自分もそれに続く感じでしたね。

 7回1/3で無失点。シーズン後半の出来を考えれば、もう上出来も上出来。チームも38年ぶりの日本一を決めることができました。好投の要因は対戦の少なかったパ・リーグ相手だったというのもあったのかもしれません。そのあたりも自分に味方してくれたのかなと、今振り返ると思います。私のプロ野球生活の中でも思い出深い試合です。

98年日本シリーズ第6戦に先発する川村。不振を払拭する好投だった


 翌99年はキャリアハイとなる17勝(6敗、防御率3.00)。しかし、2000年以降はケガなどもあり、成績は下降線となります。そう考えると、年齢的には90年代の入団から3シーズンが一番いい状態で投げられていました。チームの状態もよく、選手としてのピークというか、それが重なってくれたと感じます。特に98年は開幕戦と日本一を決める最後の試合に先発して勝つことができた。この2試合があるからこそ今の自分があるわけで、僕の野球人生を支えていると言ってもいいくらいです。そして、先発に2年目の若造を選んでくださった権藤さんは一番の恩師であります。

 98年のシーズン前、権藤さんはモットーである『Kill or be killed』(殺るか、殺られるか)の文字を自らボールに書き入れて投手陣に配りました。そのボールは今でも自宅に保管されています。20年以上前のボールですから、だいぶ日に焼けていますが(苦笑)

PROFILE
かわむら・たけお●1972年4月30日生まれ。神奈川県出身。右投右打。厚木高から立大、日本石油を経て、97年にドラフト1位(逆指名)で横浜に入団。1年目から先発として活躍し、98年には優勝に貢献。99年には17勝をマークするなど先発を支えた。2004年以降は中継ぎで奮闘した。08年限りで引退すると、ベイスターズのコーチ、球団職員を歴任。22年からはBCL/神奈川の監督を務める。

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